北アルプスの本来の山名はこうだった!
北アルプスの山々は、江戸時代の初期頃から加賀藩の「黒部奥山廻り役」
らによって、山頂はもちろん尾根の縦走、谷、沢等、くまなく調査されていった。
(水晶池や高天原の温泉までもが、もうすでに発見されていた!)
そのため、ここでの旧山名は、実際それらの山に登って調査し記録した人々の呼称を
主とします。山名には別名がある山もあるし、時代によって変化したり、旧山名が
復活したり、取り違えられた山名もある。また、現在までも変わらぬ山名もあります。
現在主に使われている山名は、おおむね明治の後半頃より付けられていった山名であ
るが、その命名ぶりは実に珍妙で、案内者や強力の仮称などはまだ良い方で、行き当た
りバッタリ式のものや、山名を付けてから理由をデッチ上げるというヘンテコなものの
多いことにはなさけないが、しかし現在その呼称が多くの人々に由来も知らないで使わ
れ定着してしまっていることは、妙におもしろいことでもある。
下の太字で書かれている山名が、現在主に使用されている呼称である。
後立山連峰
ゑぶりか岳→朝日岳
赤男山→赤男山
鉢ヶ岳→雪倉岳
雪倉ヶ岳→鉢ヶ岳
朝日岳→旭岳
上駒ヶ岳、大蓮花山→代馬岳→白馬岳
小蓮花、薬師岳→杓子岳
鑓ヶ岳→大蓮花→白馬鑓ガ岳
不帰ヶ岳、錫杖ヶ岳→不帰峰
上犬ヶ岳、ミカゲガ岳→唐松岳
赤鬼ヶ岳→大黒岳
餓鬼ヶ岳、割菱岳→五龍岳
後立山→鹿島槍ヶ岳
栂山、五六岳→爺子岳→爺ガ岳
コスバリ→赤沢岳とスバリ岳の間
地蔵岳→針ノ木岳
北針ノ木岳→舟窪岳
針ノ木南岳→不動岳
裏銀座周辺の山々
折岳、三吉岳→烏帽子岳
真砂ヶ岳→三ツ岳
火打ヶ岳→野口五郎岳
赤牛岳→赤牛岳
中岳剣、六方石山、水晶岳→黒岳→水晶岳
中岳→赤岳
獅子ヶ岳→割物岳
東鷲ノ羽ヶ岳、龍池ヶ岳→鷲羽岳
鷲ノ羽ヶ岳→三俣蓮華岳
蓮華岳→双六岳
岩苔平→奥ノ平→雲ノ平
カベキ岳→祖父岳
鍋岳→黒部五郎岳
上ノ岳→上ノ岳、北ノ俣岳
立山周辺の山々
薬師ヶ岳→薬師岳
浄土山→浄土山
立山→立山
大汝山→大汝山
別山→別山
剣岳→剣岳
大日岳→大日岳
早乙女山→早乙女岳
釣鐘山→奥釣鐘山
上高地周辺の山々
霞岳→霞沢岳
徳五峠→徳本峠
上河内周辺の山々の山名は現在と殆ど同じ。
笠ヶ岳や常念山脈の山々も殆ど変わらず。
ただし、奥、前、北穂高などはなく全体を
もって穂高岳とされていたし、槍ヶ岳南方の
大喰だの中だの南だのの名称はない。
立山方面は古来から知られていた山だけに山名の変動は少ない。
越州との国境を接さない信州と飛騨の山も当然ながら山名の変動は少ない。
鷲羽岳は本来、現在の三俣蓮華岳であったことは興味深いし、黒部五郎の鍋岳
というのも見たまんまでおもしろい。また、後立山がどの山のことをさすのか
北アルプス黎明期に議論となった。そして後立山がゴリュウとも読めることから、
五竜岳のことであろうと結論付けられた。しかし、後立山というのは最初、立山
の後側にある未知の山々のことを云っていたのであって、一つの山をさしていた
わけではない。そしてそれら未知の山々の調査がされるようになってから後、
それらの山々に名が付けられ、地図に書き込まれた。それら地図によると後立山
というのは、現在の鹿島槍ヶ岳になる。
「我こそ一番乗り!」....じゃないよ!
1907年(明治40)夏、志村鳥嶺は北アルプスの最奥地、黒部源流域の人跡未踏の
深山を求め、高瀬渓谷から烏帽子岳に登り、現在のいわゆる裏銀座コースを縦走して
鷲羽岳に至った。その時の紀行文「日本アルプス縦走記」が当時の山岳雑誌「山岳」の
巻頭を飾った。その中で志村鳥嶺は「これは破天荒の壮挙、未曾有の壮挙、誰かその
一部たりとも、日本アルプスの峻嶺を、その山稜に沿ふて、縦走せしものありや」と
自慢げに言い放っていた。野口五郎岳では、「自分は黒部川の谷の方向に向かって、
一小湖を発見した。自分はこれに五郎ノ池と命名せり」とある。また水晶岳では、
「崇高、雄偉、日本アルプス中稀に見る、高さ鷲羽に譲らず、黒部川の水源をなす
ところの一霊峰を発見、同伴の信州の人夫、類蔵もその名を知らず、地図を探るも
、何れも実際に適せるものなし」として、「後日研究の結果、黒岳と命名」した。
そしてさらに、「久恋の鷲羽岳」に到達し、「未だかつて、採集家等の、一度も
足跡を印せし事なし」として「鷲羽の絶頂より、南方眼下に、又、一湖水を発見す、
こは全く一噴火口なり、恐らく何人の耳にも新しき事実なるべし」と書いていた。
この他にも、明治後半頃の「山岳」に載せられた紀行文には、随所に人跡未踏の山の
初登頂や初縦走の話題で盛り上がっていた。
しかし、これらの峰峰はけっして人跡未踏ではなかったのだ。その二百年も以前
から、加賀藩の「奥山廻り役」によって毎年それらの山頂は踏まれ、縦走し、これ
を記録に書きとどめ、詳細な地図まで作成していた。
信州で雇った人夫が知らなかったという無名の山に、勝手に黒岳と命名した
山は、実は、その古地図や古記録には、水晶岳、六方石山、中岳剣などの名前が
明記されているのだ。奥山廻り役の石黒信由の「三州測量図籍」という1835年の
記録には、中岳剣という名で、その位置、方向、山容まで詳細に記録されていた。
また五郎ノ池も古図には記録され、池の周辺は「池ノ平」と呼ばれ、古記録には、
「池ノ平へ下り、例年の場所に小屋掛けしようとしたが、今年は雪が消え水が少しも
なかったので、やむをえず、さらに下って川原までいって小屋掛けした」などとある。
鷲羽岳の池についても、1810年の山廻り日記には、「東鷲ノ羽ヶ岳の巳(み)の方向
に池がある。この池、はなはだ減水して水は三分ほどある」などと記録されていた。
この池に因み、東鷲ノ羽ヶ岳の別名を龍池ヶ岳ともいっていた。
「奥山廻り役」って何?
「奥山廻り役」というのは加賀藩三代目前田利常によって、黒部奥山の警備
の為に組織されたものである。江戸時代初期の地図は、立山の背後は空白であった。
黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるよう
に消えている。藩政初期、黒部奥山は暗黒世界であった。加賀藩は、戦国時代の佐々成政
のザラ峠〜針ノ木峠越で越中信州間の最短の間道として重要な軍事要点として。また
「加賀白山」の領土争いから、幕府の調停によって越前藩の領山とされた渋い経験もあり、
この未知の奥山への重要度を認識し、1648年以来いくたびも役人を派遣して実地調査を
させ、やがて「奥山廻り役」を常設し、毎年巡視させた。領民に対しては、「御縮り山」
として、立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。
黒部奥山は現在の黒部湖の平の渡しがある辺りで、それより北から親不知までを下奥山、
南は裏銀座コースから三俣蓮華を経て、黒部五郎から有峰までの領域を上奥山といっていた。
なお余談だが、「加賀白山」は何処の藩の領山かということで紛争になったとき、
加賀藩の役人が幕府に赴いて、「加賀白山がどの藩の領山か揉めているので、幕府に
裁断を願いたい」と云ったところ、幕府は「なにをおかしな事をいうか。加賀白山という
のだったら加賀の領土ではないのか。なにも揉めることはない。」
といってまともに取り合ってもらえなかったようだ。
さて、奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽周辺でもなく、
水晶や雲ノ平、黒部五郎の周辺でもなく、実は後立山連峰の周辺であった。
むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華周辺は三国境としての重要地点で、
詳細に調査された。後立山はその名前のごとく、立山の後にある山々で、越中側
からすれば最奥地の山であり、しかもキレット等のやせ尾根が続いている山稜である。
江戸時代初期の黒部奥山廻り役の記録には、
「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、
初期の奥山絵図には暫くの間、空白地帯であった。
加賀藩初代藩主、前田利家は黒部渓谷口浦山村の百姓伝右衛門を大阪に召して、
黒部奥山の秘境の様子をさまざま訊いている。この伝右衛門は、元和年中、越後の
浪人数百名が黒部渓谷口内山村に立て篭もっているのを蜜訴して大事に至らしめな
かった功者といわれる。
そして三代前田利常はこの伝右衛門に松儀という姓を与え、抜擢して奥山取り締まり
の内役として役儀に任命した。さらに鏡、扇子、硯等を松儀伝右衛門に与え、しかも
武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞
をも表明した。
松儀伝右衛門はその六年後に亡くなり、その後暫く奥山廻り役は空位が続いた。が、後年、
佐伯十三郎がその位についた。しかしながら、調査につれて広大な奥山を一人で把握する
のは実際として困難となり、次いで四郎右衛門という者を採用し、彼を北部、十三郎を
南部の奥山廻り役に当てた。しかし、この初期の奥山廻り役は、後年の奥山廻り役のよう
に厳重に毎年定期的に山廻りをすることもなく、彼らの肩書き自体も奥山廻り役といわれ
ていなかった。さらに後には3名に増員されたが、大規模な盗伐が相次いで起こったり、
材木の藩内への伐出で長期期間奥山に詰めるなどの雑役も多く人手不足は必至となった。
そこで、通常の山廻り役や平廻り役などから、奥山廻り役加人として、臨時又は常勤的に
奥山廻り役の仕事を兼ねるようになった。
その後この奥山廻り役は明治3年9月の廃止まで続いた。
江戸時代の木材盗伐バトル
奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、
木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没
したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山
廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、
盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び
出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られ
て安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。
記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳二年七月に起こっている。それは針ノ木谷
でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張の杣ども25名で、遠国から
出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の
弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀の領域で
あることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり。として元締め
を連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、
四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、
小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣ども
は尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。
針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。
元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を
免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓
と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの
者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような
寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役
の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして
針ノ木以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん
帯刃も許され、手錠縄も携行していた。
奥山廻り増員後も、盗伐は絶えなかったようであるし、それを発見しても杣たちはめったに
捕まらなかった。しかし1775年、杣三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃
を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、どのような処分になったか分からない。しかし、
死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋
場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことはしたのだろうか。
その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡など
の地名となって残ったほどの大事件となったようであるから。上高地の嘉門次も、黒部源流域
の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたよ
うで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛方面を赤牛三吉と云っている。
また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。
信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、
つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。
「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立て
て来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」
などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、
かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、
といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。
立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。
越中側でなく信州側の山名が標準化したわけ
江戸時代から越中加賀藩の奥山廻り役が、北アルプスの峯峰、谷々、沢にそれぞれ名
を付けて呼び、「山廻り日記」にも絵図にもその山名等を明示していた。しかし信州に
近い山々は信州側でも信州側の山名、谷名、沢名があり、信越の呼称は違っていた。
明治になって、多くの登山家達は比較的入山しやすい信州側から信州の人夫を伴って
入山した。それで山名の多くは信州側の呼称が採用された。越中領の山々は江戸時代
加賀藩の奥山廻り役によって厳しく入山を禁止されていたこともあり、黒部川より西の
山々は信州の人夫でも山名を知らない者も多く、そのような無名の山々には登山家が
かってに名前をつけた。かくして、二百年も以前から加賀側で呼称されてきた山名の
大部分が消え去ってしまった。
それともう一つの理由がある。加賀藩奥山廻り役が二百年来において北アルプス
の隅々まで調査した地図や資料がすでにある。これらの貴重な資料は藩外はもとより
領内においても口外厳禁となっていた。それは奥山への入山を禁止していたためでもある。
これが明治になって奥山廻り役が廃止になるとき、奥山廻り役ら一同が一致してこれら
の資料を公開しないことを決めてしまったからだ。その理由は、奥山で伐木した木材を
越中側へ運び出すのは相当な困難で、たとえ運び出しても利益にはならない。といって、
信州側へ運び出せば利益にはなるが、今までの宿敵である信州の盗伐常習者たちに
奥山の詳細を知らしめることは実に遺憾なことである。などの理由によりこれら奥山
の詳細な資料や事実が世に出ることはなくなってしまった。
なお、これらの事実を世に紹介したのはそれよりずっと後、昭和の初期になって、
この奥山廻り役関係の子孫でもある中島正文氏であった。中島正文氏の貴重な資料収集と
その研究は、現在富山県立図書館に中島文庫としてある。多くの北アルプス関係の書籍等
で出てくる「奥山廻り役」の記事等は全てこの中島正文氏による研究資料が元になっている。
深田久弥の「日本百名山」の鷲羽岳冒頭の文章でも紹介されている。「....登山をただスポーツ
とのみ見る人たちには退屈な読物かも知れないが、登山をもっと広く考え、たとへ山に行か
なくても、書斎で山の本を読み山の由来を尋ね山を思慕することをも、山岳人の立派な資格
に数えている者にとっては、まことに興味津々の有益な本である」と。
串田孫一氏の話によれば、深田氏は山登りにはいろいろの登り方があるのを認め、
それぞれの態度に尊敬を払っておられたが、スポーツとして個人の心の自由を奪う
ような登山団体の方向にははっきり疑問を抱いておられた。登山を文部省体育課の
仕事に入れるのは、もっての外だ。と言っていたそうです。
登山をスポーツと考え、登山で競技を競い合い、その勝敗で一喜一憂することなど全く
無意味でバカらしいことなのだ。またそのことに気が付いてもいないのである。
それだけならまだしも、この山域はこんど国体が開催されるからこの山域にあまり入るな
とか、他のルートを使用しろとか。あげくに果てにロクに調査もせず新しいルートを切り開いて
自然を壊し、役人的で大会開催後はそのルートはまったく管理しないものだから荒れ放題で
知らない人が入り込んで道に迷ったりするので迷惑なはなしでもある。
そのような幼稚な登山者にはどうでもよいような北アルプスの古い歴史かもしれませんが・・・。
ただ残念なことにこれらの本のほとんど全てが絶版になっているため入手困難なことである。
(富山県立図書館でも貸し出しはおこっていないようである。)
鷲羽岳の怪
深田久弥の「日本百名山」鷲羽岳の中で、鷲羽岳の山名が登山黎明期に軽率なミスから
取り違えられてしまったが、その詳細をここで述べる余裕はないので、中島正文氏の筆に
よる「山と渓谷」67号(昭和16年)を見て下さい。というようなことが書かれているが、
そんな昔の資料など今時入手困難でしょう。しかしその資料が手元にあるので、その内容
を整理してみると、こういったことです。
日本アルプスに鷲羽岳が二つあると云うと岳人諸君は、何んだ馬鹿な、と言われる
だろうが実際の話だから仕方が無い。
元来越中に於いて此の鷲羽岳は三百余年も以前、加賀藩政の当初から飛騨、信濃、越中
の三カ国の分水嶺として既に有名で、幾多の文献にも実地調査の古記録にも大書していた
ものである。元禄十三年、幕府の命による御國御絵図調べの折りも加賀藩奥山廻り役等の
実地調査の記録や絵図にも「鷲ノ羽ヶ岳、三国の三つからみ」と明記されている。さらに
鷲羽岳の東北方向に聳えるやや高めの、黒部川の源となる一峯に東鷲羽岳と命名されていた。
そして鷲羽池は当時は単に池と呼ばれていたが、天保の頃より洒落た人があって龍池という
ようになり、一時東鷲羽とはいわずに、龍池ヶ岳と呼んでいた。これはこの頃の古記録や
絵図によく見えるので、奥山廻り役連中の通用語になっていた。以来ずっと明治になって
からも、三国境は鷲羽岳、その北東方は東鷲羽岳というふうに地理書や地図にも見えていた。
明治の有峰村、大山村の土地坪帳や営林署の地図にも当然鷲羽岳は三国境に聳えるものであった。
明治三十年頃の富山県編纂の地理書にも鷲羽岳は三国境に聳えると明記されている。すなわち、
三百年以上も前から、三国の境に聳える山は鷲羽岳と呼ばれ、毎年この山頂は奥山廻り役の
人々によって踏まれ警備され続けてきた有名な山であったのだ。
ところが明治四十三年、日本山岳会の長老小島烏水と高頭仁兵衛の諸氏が例の上高地の嘉門次
を案内人として信州方面から登山、この方面の近代登山の幕が切って落とされた。
彼らにとってはこの山々は全然処女地であり、肝心の嘉門次も山歩きはうまいが越中や飛騨の
山々の因縁古事来歴の判らぬことで、問いつ問われつして出来た当時の山名には珍無類のもの
が幾つもある。さしずめ飛信越三国境の三俣蓮華岳もこの類である。その当時の彼らの紀行文
を読むと、「飛騨の猟師が、この山で熊を射止めた。そうして熊の膽(キモ)のつもりで俗称
蓮華膽(肝臓)を腹から引き出して喰ったので信州の猟師達が嘲笑って「蓮華喰みの岳」と
言ったのを略して蓮華と呼んでいるのだ」と言う嘉門次老の説明を記している。説明役が
嘉門次老で聞き手が日本山岳会のお歴々だからたまらない。大先達の一言、九鼎大呂より重く
山岳界の大衆は之れ命これ奉ずることになったことは何とも致し方ない次第である。
大正四年、陸地測量部の日本アルプス方面、五万分の一の地図の改訂版が出た。この地図の
三国境は越中方面の文献を重んじてか依然鷲羽岳となっていたところ、手酷びしい日本山岳会
方面の攻撃となった。
「地形はよいが地図として頗る軽からぬ不満な点が二三あると思う。それは地名の調査が不十分
なのだと思われる点である。槍ヶ岳図幅を見ると飛信越の境が鷲羽岳となつている。実際は其の
東北2924米の三角錐のある峯が鷲羽岳とか単に鷲とか呼ばれる峯で目標になるべき鷲羽の池も
図にちやんと表れているのである。而して三國の境は蓮華岳なる名で呼ばれているのである。
而して其の南、地図に蓮華岳とあるのは正に双六岳に当たっているのである。これらの山の名は
殆ど一般の通用を持っているので決して彼我相混じて使われる様な事のないものであるから頗る
該図の名は不都合千萬であって、その地方に行く人々にとっては人足の使う名と行違いが出来た
りして仲々迷惑を起こすことであろうと思う。これらの事のために折角疵の少ない地図に実用的
なものとしての疵を付けることは決して少なくないのでこの点大いに何とか御一考を願いたいと
思う次第である。」と言う風に調査不充分を真っ向に振りかざされては流石に強心臓の測量部も
元来苦手の地名の穿盤のことゆえすっかりシャッポを脱いで昭和五年の修正改版の際には鷲羽岳
の山名を東北2942米の峯へ移し、三國国境は改めて三俣蓮華岳を出現させて先ず先ず岳人諸家
の御機嫌を取り込んだのである。
結局嘉門次の理に合わないような御宣託を百パーセント信用した軽率なミスであった。
というふうなことである。
1809年の黒部奥山廻絵図
<画像をクリックすると拡大画像が見えます。>
作製年代不明の江戸時代の立山絵図
<画像をクリックすると拡大画像が見えます。>