日  本  ア  ル  プ  ス  登 山 と 探 究

 日本アルプスとは一般的に、飛騨アルプス、木曽アルプス、赤石アルプスの三つの山脈を指すようです。(本来、ガウランドは飛騨山脈に日本アルプスと名付けた)なかでも飛騨アルプスが一番ぶいぶいいわせています。日本百名風景なるものを選ぶとすれば、この地域だけで半分近く占めてしまうかもしれません。是非ともこれだけは名風景として入れたいところを選んでみました。

 白馬岳のお花畑。昔は大蓮華山といわれた今の白馬岳(ハクバと読む人がいたら山やのもぐりである)、とくに大出原のお花畑はごきげんです。白馬岳を一番素敵に眺められるところは、鑓ガ岳の山頂からでしょうか。西側斜面のゆったりと緑と残雪の広々とした風景はなかなかそそるものがある。それに比べて東側はすぱっと切れ落ちた絶壁で怖い。こういう山を非対称山稜と呼ぶそうだ。谷川岳も典型的なそれだなや。白馬はフォッサマグナに沿って隆起した断層と、越中からの冬の季節風の影響で大量の雪が西側斜面より張り出し、その雪屁の崩れとともに山を削り、また浸食されあんなになっただなや。北アルプスでは普通、浸食作用はそうゆうわけで東側斜面に起こる。槍、穂高のカールやU字谷、モレーン等の興味ある風景を見せているのは東側です。薬師、五郎、三俣、内蔵助、水晶等のカールもみんな東側です。ところが立山にはカールが西側にある。「おおこれは珍しい」ということで、日本で最初に氷河地形を発見した山崎直方というおっさんの名をとって「山崎カール」といい、天然記念物に指定されているそうです。この山崎という人はあの「世界のパン・ヤマザキ」の創立者である。てなことは決してない。 ウェストンは1894年に蓮華温泉から白馬岳に登った。1683年8月の、「黒部奥山廻り役」の山村三郎左衛門の検分記録には白馬岳が上駒ヶ岳と記されている。この「黒部奥山廻り役」は1640年に加賀藩主三代目前田利常君により、国境の安全警備、蜜貿易、盗材からの森林保護などのため、正規ルートによる信仰登山(立山)以外で黒部川流域、後立山連峰への立入りを禁止した。そして1648年よりこの地域を巡視、調査測量、絵図の作製などのため「奥山廻り役」を置き、毎年この地域を巡視させていた。それは廃藩置県の明治維新の頃まで続いたそうです。中剣岳(現在の水晶岳)、竜池ヶ岳(現在の鷲羽岳)、鷲羽岳(現在の三俣蓮華岳)等の黒部源流域の山々及び、後立山連峰の全山の頂上は、たぶんこの人達がそうなめだったと思われる。この現在の三俣蓮華岳が本来は鷲羽岳であって、今の鷲羽岳は竜池ヶ岳又は東鷲羽岳であったのを、大正時代、登山黎明期の登山家の軽率なミスにより山名が取り違えられたという話は有名です。しゃーないやっちゃなあ・・・。ほんまに。
“べちゃるな!空缶は捨てるな、彼女は捨ててよ”・・・長野県更埴市にあった意味不明の看板
べちゃるなとはどういう意味ですか? 長野県の人、教え給え。


 仙人池からの剣岳。仙人池からの紅葉と初雪剣は、死ぬまでに一度は見ないと的風景。剣岳は1969年までは3003mの山であったのに、測量見直しの結果、2998mにされてもた。そんな剣なんですが、1907年、それまで人跡未踏と思われた剣岳の山頂に、陸地測量部の紫崎芳太郎御一行様がガイド宇治長次郎の案内で登頂した。しかし、山頂には奈良時代後期の槍穂と錫杖の頭がころがっていた。また幅1m,奥行2mの岩屋と、数十年前と思われる焚火の跡や、祠があったそうな。もうすでに何人かの人が登っていたのでした。一方、隣の立山の方は富士山、白山と並んで日本三大霊山(高野山・比叡山・恐山は日本三大霊場です、混同しないで!)のひとつとして多くの人が登山されている。立山の開山は 701年、越中の国司佐伯有頼によって成されたとされている。が、それは手負いの熊を7日間追っていった高原に、阿弥陀如来と不動明王いて、立山を開山せよというお告げを聞いたという伝説で、実際には十世紀初めのようです。信仰登山は江戸時代には一夏に6〜7千人の登拝者がいたようです。立山・剣は奈良時代には、役小角{ 633年最初に富士山に登ったともいわれる山岳修験道の祖。役行者ともいい、山岳信仰の緒山の祠堂のほか、真言、天台の密教寺院にも祀られている(文京区の護国寺にいる)}もどき勇猛果敢な坊さんによって登られてはいたが、剣岳の方は、山頂に奈良時代の物がそのまま残っていたということは、平安時代以降ほとんど誰も登らなかっんでしょうか。山頂にあったその錫杖は国の重要文化財に指定され、紫崎さんちで保管されている。レプリカは立山山麓の芦峅寺の風土記の丘博物館にあるそうです。紫崎芳太郎は、再度剣に登り三角点を置いたほか、エトロフ島の探査やヒトカップ山にも登り、測量官として結構ぶいぶいいわせたそうです。そしてガイドの長次郎は、長次郎谷として谷に名前が残っている。現在、剣岳はいくつかの登山道が付き、多くの人に登られている。その北の尾根伝いに北上していくと、むかし小剣岳ともいわれた毛勝三山がある。2414mもある大きな図体の立派な山であるが、登山道がないためほとんど人が登らない。北アルプスにもまだこんな山もあるんですね。登山ルートとしては1910年に田部重治が登った阿部木谷をつめるル−トが今も利用されているそうです。藪が濃いので残雪期がよいようです。無人の片貝山荘もあるようです。でも特に登りたいとは思わん。 
 オルデン牧師、Drベイカー、オルソン商店、ウォルナットグローブ、といえばもうお分かりでしょう。そう“大草原の小さな家”しかしいつもすごい感動させられるよね。インガルス一家はまったく理想の家族で、とくにキャロライン母さんは、磯野家のフネ母さんよりも理想過ぎるぐらいいいよね。


 雲ノ平祖母岳山頂からの360度の大景観、大景観。しかも槍や穂高の狭い山頂からのただの大景観だけではない。足元から広大に広がる大庭園からの大景観です。槍や穂高はまだまだ子供だな・・・。よくある高原もどきではなく本物の高原。ウエストンも知らない。水晶、祖父、鷲羽、黒部五郎、薬師、等の山がドッカンと見える。太郎平から雲ノ平、双六岳にかけての山は、丸い山頂のなだらかな山ばかりですが、これは大昔の海底であったレキ岩や砂岩が3000mも隆起して、現在もまだ山頂付近まで浸食されていないからです。双六岳のあの広い山頂は大昔の海底がそのまんま残っている状態です。双六を縦走するとき、大昔ここは海底だったんだと思いながら歩いて頂くと、山行がよりひとしお感慨深いものとなることでしょう。アンモちゃんやストロマトライトくんの化石がいるかもよ。 槍や穂高は山頂まで浸食がなされ、硬い岩部だけにはぎ取られた山ですから、地学的にいえば双六の方がまだまだ子供だな、でしょう。それから雲ノ平は、海底隆起のさらに後、祖父岳火山の噴火による溶岩台地なので、まだまだ孫だなでしょう。この祖父岳は乗鞍火山帯に属し、北麓の高天原には温泉も沸いているが、火口などは分からない。と、たいていの文献にはそう書いてあるが、山頂の東側はほとんど直角に切れ落ち、その壁は火口壁のようなデザインをしている。その東側は黒部川源流地点です。そこに立つと、ぐるっと周りを祖父、岩苔、ワリモ、鷲羽にとり囲まれ、カルデラの中にいるようです。そこで仮説。実はここはカルデラ低なんです。立山カルデラと同じように、五色ガ原や弥陀ガ原の溶岩台地をつくり、火口は沈降し刈込池となったように。むかし祖父岳火山は三千mを越していた。そしてこの火山はある日、大爆発を起こして山頂部分をぶっ飛ばし、大量の溶岩を流出させて雲ノ平を造った。大量に溶岩を流失したこの火山の火口は沈降してカルデラとなった。そして鷲羽とワリモが隆起してきた。鷲羽池は富士山でいう宝永山のような火口です。それから幾年月が経つうちに、風化、雪崩、土砂崩れなどによりる土砂の流入で現在に至る。という大胆不敵な仮説である。ただ縦走することのみだけでなく、こんなことも考えながらもっと自然にふれてみると、さらに楽しい充実した山行となります。 雲ノ平へのルート開拓は三俣山荘の伊藤正一(生存中)氏によって開かれた。高瀬ダムの出現により、死にかけになったあの伊藤新道である。いわゆる山小屋営業ヤクザまがいのへんてこ緒場代払え、さもなければ山小屋営業禁止じゃー、で、ボケ官僚と戦っているあの伊藤さんである。戦後おんボロ小屋だった三俣の山小屋を伊藤氏が管理するようになった。戦時中だれも山に登ることがなかったせいか、そのおんボロ小屋に山賊が住み着き、悪さを働いているという噂があった。そこで伊藤氏は様子を確かめに小屋へ赴いたそうな。そして恐る恐る小屋を調べると、なんと四人の男達が「捕まえる」「撃ち殺す」「剥ぐ」とか尋常ではない会話をしていたそうじゃ。そして伊藤氏の運命はいかに・・・。詳しい続きを知りたい善男善女は伊藤正一氏著の「黒部の山賊」をみてみい。

 高天ガ原の竜晶池からの薬師岳とその周辺。少女趣味ではないが、おとぎ話の世界である。ここがあの日本のどこかとは思えなくなる。都会のビルや地下鉄や人ごみも、もはやまったく記憶にない。催眠術でもかけられたようなとても気持ちいい、脳からα波が出まくっているぞみたいな、そんな一時を過ごす事のできる、魔法の領域です。とにかく静まりかえっている。その名も「夢の平」という。地図にも載っていない、どこまで続くのか分からない道をさらに奥に進むと、小さな湿原がつぎつぎと現れる。お花畑もある。ウエストンも深田久弥もインディージョーンズも、まだ誰も知らない秘密の領域だったのです・・・。近くの水晶池もよろしくね。


 西岳ヒュッテの天場付近からの槍〜穂高の大観。槍〜穂高を最も素敵に見えるところはどこだろうか。西側では笠ガ岳近くの抜戸岳の山頂からが最も良い。しかし槍〜穂高は東側の旧氷河地形を見たい。蝶ガ岳も良いが少し遠い。そこで槍〜穂高を最も素敵に見えるところはというと、西岳ヒュッテの南にある赤沢山2670mである。そうあの常念から槍を眺めるにあたって、映画館で前の人の頭が邪魔なごとく、手前に居座って展望を妨げるあの邪魔な山である。また逆に、槍から常念を眺めるときにも、この赤沢山は邪魔をする。その赤沢山が実は槍〜穂高、または常念を最も素敵に見させる奴なんです。山頂は南北にながく広々と開けて気持ち良さそうだ。しかし、歯がゆいことにこの山は、山頂に行く道を持っていないのだ。しかし三角点が置かれているようだから、誰かはその展望を満喫したことでしょう。

 槍ガ岳に最初に登った人は播隆という坊さん1828年のこと。笠ガ岳に登り、槍の姿を見てどうしても登りたくなったようです。しかしそれより以前に名もない坊さんかなんかが登っていたかも分からない。播隆は阿弥陀、観音、文珠の三仏像を安置し鎖も架けた。その後大勢の人が槍に登った。そして仏像も鎖も持ち去られた。その後登山は暫く途絶えた。播隆は笠ガ岳にも阿弥陀仏を二度にわたって安置していたそうだ。ウェストンが登った時には阿弥陀仏がいたもよう。最初の阿弥陀仏は現在、麓の上宝村の村上神社に安置されているそうだ。誰がわざわざ下ろして、しかもなんで神社に安置したんでしょう。そして播隆が二度目の登頂の時安置した阿弥陀仏は、今も笠の山頂にいる。 槍ヶ岳は播隆から50年後の1878年、ガウランドが登頂、1892年ウェストンが登頂。では穂高の初登頂はというと、1893年、陸軍省測量技官の館潔彦と上條嘉門次が前穂高に登った。そのとき舘くんは山頂近くから転落し、そらもう大騒ぎになったが、奇跡的に死ななかったそうです。その二週間後に嘉門次がウェストンと再び登った。瓢箪池、明神岳経由で登った。そうなんです、当時は前穂が最高峰と思われていました。ウェストンの持っていた王立地理学協会製の水銀気圧計によると、3045mだったそうだ。ちなみに日本で二番目に高い山は槍ガ岳3090mと思われていた。最高峰の奥穂に最初に登ったのも陸地測量の役人でした(1906年)。しかし記録にはないが、1877年にガウランドが奥穂高に登ったともいう。野口五郎岳にも登ったことのあるガウランドだけに、真実かもしれない。また、1880年頃にはガウランドが嘉門次とともに明神岳に登り、この山行で初めて「日本アルプス」という呼び方をした。北穂の初登頂は、嘉門次の案内による鵜殿正雄の初大キレット縦走で有名です。では西穂の初登頂記録は、1904年、長野県の営林署の石野延行様御一行の、槍から大キレット、奥穂高、ジャンダルム、西穂高、焼岳、安房峠、乗鞍岳へとの大縦走の途中で踏んでいる。凄いコースですねえ。いったいこの人、「なんばしょっとォですかァ」というと、長野県と岐阜県の県境を測量しにいってたそうです。ばってん、こんなんよっぽどの危険手当をもらわんと出来んとですたい。 現在は奥穂高3190mが本邦第3位の山と、とりあえず思われている。山頂には2mの高さを越えるケルンが積まれている。この上に立つと、本邦第2位の北岳3192mより高くなれるという理由でケルンを積んだお目出たい人達がここにいた。では日本一高い峠となると、南アルプスの三伏峠だというデマがとびかっているようですが、本当は北アルプスの飛騨乗越3000mなんですよ。

 秋田県田沢湖西岸に“きりたんぽ”と“いわな”を、地元の赤い顔をしたおっちゃんたちが、秋田弁で喋りながら、目の前で焼いて食べさせてくれる所がある。とても美味しいよ。


 黒部五郎岳のカール底。素晴らしい景色はどこにでもあるが、ここは他に類例のない素晴らしさである・深田百名山より。岩がとにかく見事で芸術的な造形をなしている。そして花と水の流れと残雪と。黒部五郎岳にカールがなかったら、ただの稜線の一ピークに過ぎなかったろうし、太郎平への道も付かなかったかもしれない。たいていの地図には、山頂から尾根づたいに五郎小屋までの道が付いているが、けっしてこの道を使ってはならない。五郎小屋からピストンするときでもカール底の同じ道を往復すべきである。尾根道は冬道で、夏は道はほとんどない、展望無い、水無い、指示票無い、這松漕ぎあり、コース迷いあり、脱水症状ありです。この山に最初に登った人は、分からない。1910年に登った人によると、既に参拝者の形跡があったそうだ。ウェストンはダムに沈む前の有峰集落近くまでは行ったようだが、この黒部五郎岳は登らなかったし、カールの素晴らしさも知らなかったろう。ウェストンにも是非登って欲しかった山の一つである。
 静岡清水の“チビまる子ちゃん”と埼玉春日部の“クレヨンしんちゃん”どっちがよりおバカさんでしょうか(面白い)。私は前者の方だと感じておりますが、先生方はどちらだと思われますか?


 五色ガ原。雲ノ平同様に、広い高原は高山植物の宝庫。そこからの立山、剣、薬師の眺めはすこぶる良い。しかし雲ノ平と違って、入山が容易である。黒部立山アルペンルートを利用すれば、ザラ峠を経由して午前中にはもう五色ガ原にいる。ずばり!のんびりとしたい所でしょう。ところでザラ峠といえば、1584年の厳冬に富山城主・佐々成政のさらさら越えが有名でしょう。豊臣秀吉に包囲されてる状態の成政は94人の兵を率いて、浜松に徳川家康と織田信雄に秀吉を討つよう助けを求めに行った。ルートは立山温泉〜ザラ峠〜刈安峠〜黒部川・平〜針ノ木峠〜大町(船窪越えの説もあり)この逆コースでウェストンは横断している。この道は猟、蜜貿易、立山信仰登山、奥山廻り役などの拠点で、ルートは江戸時代までは牛馬でも通れるほど整備されていたそうだ。また明治初期にはさらに整備され、加賀新道として利用されていたそうだ(日本初の有料道路だといわれる)が、1893年にウェストンが赴いたときには、既に驚くべき廃道状態であった。今はダムに沈んだ平には立派な廃墟と化した宿屋があったようです。旅人の相次ぐ遭難や道の崩壊、また親不知に安全な道が付いたためだろうか。(詳しい当時の様子はウェストンの「日本アルプス・登山と探検」に大変興味深く書かれています) 結局、成政はさまざまな苦難に遭いながらもようやく厳冬のアルプスを越えたのも空しく、家康らは助けに応じてくれず、すごすごまた同じルートを越えて富山に帰ってきたという。帰路はさぞかし重暗い道程だったろう。その後,成政は秀吉の軍門に下り、肥後へ飛ばされ、のち幽居された尼崎で殺られたという悲しき武将だった。成政は歴史上ではけっして重要人物ではなかったが、アルプスキッズのあいだでは有名人物として語られている。また、字名を佐々内蔵助成政といい、黒部ダムの北にある内蔵助平、内蔵助谷、内蔵助小屋、内蔵助カールなどにさらに名を残している。なかでも内蔵助カールには厚さ15m、幅200mの氷塊があり、名古屋大学の研究グループが雪渓の底まで掘って調査し、日本にも現在氷河があったとされている。また、内蔵助谷の浸食によってできた内蔵助平は、明治の末に大規模な盗材によりハゲチョロピンの台地になってしもたが、実は、そこには成政の軍資金が隠されているという噂がある場所の一つである。この軍資金の伝説のある場所としては他に、針ノ木、太郎兵衛平、鍬崎山、水晶岳西斜面、1959年ダム湖に沈んだ有峰村など。今なおその軍資金の夢を追い求めている、お目出たいロマンチストもいるそうです。 成政国替え後の富山は、加賀藩・前田利家の領有となった。そして黒部奥山廻り役が置かれたのです。加賀 120万石もの勢力は超強大で、後立山を含めこの地域への信州側からの手だしはほとんど出来なくなっていったようです。(上高地周辺は水野君の松本藩が材木の伐採をしていたし、高田君の越後藩は北部の蓮華鉱山の調査、開発をおこなっていた)
 ウェストンが立ち寄った立山温泉(立山カルデラ低)は当時はよく賑わっていたようだが、現在は廃墟となっている。アルペンルートが出来るまで、立山温泉経由で室堂に登るコースがあったようです。そういう廃墟となった温泉の地図を見ていると、何故かそういう所に行ってみたくなる。もっとむかし、立山への登山ルートは二つあった。一つは真言宗系の登拝者が辿った、早月川から大日岳(真言宗の基本系本尊は大日如来)を経て室堂に出るコースと(大日岳で発見された銅製の錫杖が上野の国立博物館に保管)。もう一つは、天台宗系の登拝者が辿った、常願寺川からいまのアルペンルートのコースで室堂にでるルート。しかし前者のルートは加賀藩奥山廻り役によって通行禁止となり廃道と化す。そして天台ルートは栄え現在に至る。ところで、日本の登山は古来より信仰の対称として盛んに登られていた。欧州などでは魔の住む所として人は山頂に立つというようなことはなかったそうです。そういうこともあり、日本の山の頂上には、決まってだれか仏さんがいる場合が多い。(マッターホルンには大きな十字架が立っているが)また、山名にも仏さんの名前が付いている山がちゃんと揃っている。大日如来(大日岳・北ア)、阿弥陀如来(阿弥陀岳・八ッ)、不動明王(不動岳・北ア)、地蔵菩薩(地蔵岳・南ア)、観音菩薩(観音岳・南ア)、釈迦如来(釈迦ヶ岳・大峰)、普賢菩薩(普賢岳・長崎)、薬師如来(薬師岳・北ア)あと、弥勒岳と文珠岳が欲しいんですが、どっかおまへんか。
 小沢一郎君を励ます会。エボラウィルス体験セミナー。北朝鮮工作員に拉致された日本人カップル奪還コマンド隊。三越デパート玄関前のライオン像に誰にも見られず跨がって幸せになる会。 あんたどの会に参加したい?


も っ と 自 然 を 尊 重 し 、 愛 し て 欲 し い !

 「日本アルプス」の名付け親はウィリアム・ガウランド大日本帝国造幣局職員。そしてこれを世に広く紹介したのが、日本の近代登山の父といわれるウォルター・ウェストン・バテレン宣教師。そうです、上高地梓川のほとりにある、あのあやしい顔のレリーフ像のオヤジです。日本アルプスに多少なり興味のある人なら、このおっさんが何者なのか、また名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。しかし上高地に大型観光バスなどでやって来る多方の人達は、徳本峠も知らないだろうから、ウェストンも知らない。ウェストンレリーフの前で、上高地観光風の彼女が、連れの彼氏にきいていた。「ねえ、この外人なに?」 彼「そこになんか書いてあんやん、読んでみ」 彼女「読んでみ、ゆうたかてなんかこれ英語で書いてあんやん、ほんなもん読まれへんわ。なんやろねー」
 ガウランドもウェストンもなぜかUK人づら。UKには高山がない、UKで一番高い山はベンネビス山(1343m)。おいらはUKに行ったことないから知らんけんど、たぶんUKというところは目ぼしい山の見あたらん千葉県のみたいなところなんかのう。 Alpsを英和辞典で調べると、Alp(高山)の複数形とあったぞなもし。しかし、UKには高山の複数形はないからAlpsは英語ではないぞなもし。鎌倉市に鎌倉アルプスとよばれる低山の複数形があるがな。Alpの意味からすると、これはウソばっかしだがね。 ウェストンの歴史的名著「日本アルプス・登山と探検」という本があるじゃきに。この本によって日本の近代登山は開化したじゃきにのう。しかしながら英国人宣教師の書いた古い本で、しかも和訳が原文に忠実に訳したのか、文章的に何か変、意味難解な文章が所々あり。でも百年前の日本アルプスの様相を記したものであるから、大変興味深い。しかし、山ヤのくせに興味深くないという人もいてはります。それはどのような人かともうしますと、深田君の「日本百名山」鷲羽岳の冒頭の文章をそのまま引用できます。「・・登山をただスポーツとのみ見る人たちには退屈な読物かも知れないが、登山をもっと広く考え、たとへ山に行かなくても、書斎で山の本を読み山の由来を尋ね山を思慕することをも、山岳人の立派な資格に数えている者にとっては、まことに興味津々の有益な本である。・・」 串田孫一氏の話によれば、深田氏は山登りにはいろいろの登り方があるのを認め、それぞれの態度に尊敬を払っておられたが、スポーツとして個人の心の自由を奪うような登山団体の方向にははっきり疑問を抱いておられた。登山を文部省体育課の仕事に入れるのは、もっての外だ。と言っていたそうです。30年も前にもうすでにこういう事を言っていたのだから登山界のアヴァンギャルドな人だったんだべ。ウェストン以前の信仰登山と狩猟登山は特定一部の地域を除いて消えた。そして現在、登山は体育会系のただの低俗なスポーツから、もっと意味のある高尚な文化的要素を加味した登山へと進歩しつつあります。体育会系登山全盛期の頃、例えば、百花繚乱の花畑を求めたり、芸術または学術を求めて山行を行う文化的前衛登山団体がいくつあったでしょうか。また、かつての尾瀬の如く、日本中の山岳自然が大規模に汚されたのもこの時代でしたね。ゴミ回収のヘリコプターが、あの剣岳山頂にも飛んだという驚愕すべきこともありましたね。現在、大学の有名山岳部などでもアナクロニズムな山岳部は消滅の危機に陥っている。そうなんです、精神的に文明開化していない、そして子供の時から画一された教育でマインドコントロールされた頭の腐った官僚の如くいつまでもアナクロニズムなことをやっていると相手にされなくなります。彼らに臨機応変はない、マニュアル外のことは盲目的である。さらに悲しみ憐れむことは、彼ら自身それに気付いていないことです。仏滅。登山を国体の競技として、競わせて勝敗順位をつけさせるなどという下劣な行為は、いかに時代錯誤で官僚的で、登山と自然と人間性をバカにしているとしかいいようがあらへんで。またそれに全く気付いてへんにゃ、こいつらアホやから。ろくでもないところに登山道をかってにつけて、国体が終ってだれも使わず管理せずで、荒廃道になってもあとは知らん顔。国体シーズン中はあまり当山域に入るなと、かってなことばっかし。まったく官僚的だ。ナメンなよっ、て感じだよねー。あの松本智津夫尊師様のΩ狂団と日本官僚凶団とは実によく似ているよ。官僚凶団の信者達は子供の頃から、ヘッドギアのかわりに、競馬馬に着ける遮眼帯(レースのとき、周りのことは無関心にさせ、前方のみがよく見えるようにした目に着ける遮へい物)のようなものを心に着けさせられ、とても自己中心的エリートのみを徹底洗脳される。そうして洗脳された彼等は、自分達が、自分の考えが最も正しいんだ。違う考え方の人間は間違いだ、君達はマインドコントロールされているんだ、君達はバカだ、頭がわるい。と,こうなる。自分の考えしか見えない。エリート官僚どもとカルト教団の信者の目つきを見てごらん。ほら、同じでしょ・・・。そして人間らしさや常識も無くなり、ターミネーターのようになってまう。あまりお友達にしたくないタイプ人間になってまう。大震災が起こり、大勢の死にかけの人々が埋もれて助けを求め、いますぐにも救出しないと、にも拘らず。「検討しておきます」「上司と相談いたします」「上部の指示がありませんので」「担当部が違います」・・・アホかおまえらは、何人の人がその間、苦しみながら死んでいったんだ。いづれにしても自然と人間性を軽視した官僚的又は体育会系の低俗なスポーツとしての登山は薄れていくだろうし、またそうあるべきであります。それによって自然軽視と山岳事故も減れば幸いです。また、昨今アウトドアブームと称して安易に自然の中に無神経に入ってくる人々も増えているのも事実であり、悲しきかな。登山は山という自然があるからこそあるのであって、自然がなければ登山はなりたちません。自然を軽視しない人こそ登山の資格のある人ではないでしょうか。自然を愛する人に悪人はいない。自然を軽視している人は、愛を持たず知らない。自然を軽視している人は、登山は御遠慮して頂きたいものですね。高山植物の可憐なお花畑を目の前にして何の感情も覚えないようでしたら、おまんけっこう危ないかもね、気を付けませう。



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