コシャマインとシャクシャイン

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 コシャマイン:不詳〜1457年
胡奢魂犬。(『新羅之記録』)
渡島半島のアイヌ部族の総酋長と考えられている。子もいたようだが、名や人数、性別等は不詳。
 1456年春、箱館にほど近いシノリ(志濃里)の村でアイヌの少年が倭人の鍛冶屋に依頼した
マキリの切れあじをめぐって口論となり、鍛冶屋がアイヌの少年を刺し殺す事件が起きた。
これをきっかけにして、今までの数々の和人の横暴に対して道南地方のアイヌの人々がついに倭人に
対して一斉に蜂起した。そのとき酋長であったろうコシャマインはその指揮にあたったとみられている。
 1457年5月14日、アイヌ勢が箱館をはじめ、道南各地の豪族の館(小林良景の志濃里館、
河野政通の箱館、佐藤季則の中野館、南条季継の脇本館、蒋土季直の穏内館、今泉季友の譚部館、
下国定季と相原政胤の松前大館、近藤季常の禰保田館、岡部季澄の原口館、厚谷重政の比石館、
下国家政の茂別館、蠣崎季繁の花沢館。俗に十二館という和人の拠点)を襲撃した(「コシャマインの戦い」)。
 アイヌ勢は最初優勢で、茂別館と花沢館の二館を残すのみという状態になった。しかし花沢館(現在の上ノ国町)
にいた武田信広(後に、蠣崎氏の養子。松前藩祖)によってコシャマイン父子が討たれると(一説に6月20日)
アイヌ勢は劣勢になり、ついに敗れ、倭人軍が道南を回復、戦いは終結した。
 なお戦いの記録はわずかに松前氏の古い記録に記されているのみで、詳細は不明であるうえ、
コシャマインの人物像もはっきりしない。しかし乱の発生した年代が、下北半島の豪族蠣崎蔵人が
南部氏に追われ、また下国政季が大畑から蝦夷島に移ったとする年と前後している。

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 シャクシャイン:?〜1669
江戸幕府徳川4代将軍・家綱の時、江戸から遠く離れた蝦夷の地で、大規模な
アイヌの反乱が起こった。当時アイヌの人達は倭人との交易、狩猟などで生計を立て
ていたが、その交易の大きなものの一つに松前藩があった。松前藩では米が取れず、
石高 無しという藩である。松前藩の財政を支えていたのがアイヌとの 交易で、アイヌの
人との交易で得た品々を本州等に売りさばき収入を得ていた。
しかしアイヌの人々は、松前藩の他にも独自に本州まで行き来して交易をしていた。
ところが松前藩は交易の独占を企み、幕府に要請して松前藩以外の藩がアイヌの人
との交易をすることを禁じさせることに成功した。
するとアイヌの人は、松前藩としか交易ができず、松前藩に有利な条件でしか交易
出来ないようにされてしまった。アイヌの人々の生活は困窮してく。
 1669年、アイヌの酋長シャクシャインは蜂起した。 約二千の軍勢でシャクシャイン
は松前藩に進撃を始めた。 幕府は松前藩からの急使に驚き、アイヌ人が中国と結び、
攻め入る事も恐れ てか、松前泰広を総大将に任命して討伐を命じた。
シャクシャイン軍と松前軍は松前藩の境界線に近い国縫で激突、アイヌ勢は鉄砲を使う
松前軍に大敗する。退却したシャクシャインは体勢を立て直し、得意な冬場の決戦に
持ち込もうとした。だが、松前泰広はこの作戦を見抜き、謀略を謀る。
幕府を背景に「抵抗するならアイヌの血を絶やすまで攻め続ける」 と脅した。
すると功を奏したかたちで各地でアイヌの人の投降が相次いだ。
冬近づく10月、シャクシャインの元に松前藩からの密使が訪れ、「抵抗を今すぐ
やめるならアイヌ人の殲滅はしない」と和睦を申し入れる。10月23日、 シャクシャイン
はアイヌ人の血を絶やさないとこを考え、和議の場に赴くことになる。しかしこれは
松前藩の謀略で、酒に毒を盛られたとか、酔った所を斬り殺されたといわれる。
シャクシャインの死後、松前藩の一方的有利な交易となり、あろうことにアイヌの人は
強制労働までかり出される始末であった。

 シャクシャイン像

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