山田長政

 [山田長政]
1590?〜1630年
山田仁左衛門長政。駿河沼津城主、大久保忠佐の駕籠かき。。
シャムの日本人町の棟梁。シャムの六昆王(リゴール国王)
山田長政は1590年頃、駿府馬場町の紺屋、津の国屋の山田友山の倅として生まれた。
母は藁科村の寺尾惣太夫の娘という。 一時、駿河の沼津城主の大久保忠佐の駕籠かきをしていた。
 時の貿易で海外へ進出する商人たちに刺激され、1612年のころに密航して
シャム(現在のタイ) に渡り、首都のアユタヤに住む。山田長政の活躍した17世紀には、
シャム(タイの旧名)は今のバンコク王朝ではなく、アユタヤに首都を置くアユタヤ朝
が支配していた。アユタヤは、チャオプラヤー川と数多くの支流を通じてもたらされる
タイ内陸からの物流とタイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点に
あるという地の利を生かして、古くから交易が盛んな豊かな国でした。17世紀のはじめまで
には、アユタヤ市の南東に各国からやってきた外国人達の集まる外国人町が出来、日本人も
自分たちの町を作っていた。
 
この日本人町の人口は最盛期で1500人に上ったといわれ、山田長政の活躍した頃には
商人だけではなくキリシタン・関ヶ原の役、大阪落城後亡命した浪人なども多くやって
来ていたとわれています。
彼は、アユタヤに渡ると日本人町にて貿易活動に従事するうちに頭角をあらわし、
やがてはアユタヤにとどまらず、マラッカや今日のインドネシアなど東南アジアを
股に掛ける大仲買商人として活躍します。
1621年のアユタヤ使節の来日に際しては、同行させた部下を通して時の老中、
土井利勝などに書を送るなど斡旋につとめ、その後もたびたび日本の有力者に贈り物
や書状を送り、日本とアユタヤの修好につとめた。
そうした中で、長政は日本人町の頭領に収まり、ルアンというアユタヤの官位を授かります。
 貿易家であると同時に、優れた軍事的才能を持っていた長政は日本人の武士たちで構成
された日本人義勇隊の隊長として、像にまたがり日の丸を立てた日本兵を率いて勇敢に戦い、
タイの内乱や外征に参戦し、つぎつぎと武勲を立てます。
[像に乗り日本軍を率いて出陣する長政]
その功績を国王ソンタムの信頼をうけ重臣となった。
1628年にはついにタイの最高の官位であるオークヤーに任じられ、セナーピムックという
名を賜ります。
しかし信頼をうけていた国王が亡くなり、王子と国王の弟があとつぎをめぐって対立。
その争いに巻き込まれた。
 勇猛な日本人義勇隊を率いる長政の勢力はアユタヤ王国内でもかなりのもので、
この内乱には、国王の遺児を王位につけるために日本武士団800名とシャム軍20000を
率いて王宮を守り、これに成功する。
ところが、当事アユタヤ宮中の実力者であり、長政とともに王子を擁立していた王族の
オークヤー・カラホームは、王子を殺し、そしてアユタヤの権力争いに影響力を及ぼすよう
になっていた長政がアユタヤにいることを警戒し始め、アユタヤからはるかに南に下った
アユタヤの宗主権下にあった王国のリゴール(六昆、現在のナコーン・シータマラート)
の国王に任命した。
そこでは以前のリゴール王を支持する勢力による反乱や、南のパタニー国の軍の度重なる
侵入を抑え、うまくリゴールの地を治めていた。
しかし、それも長くは続かず、長政はパタニー軍との戦闘中、右太ももに傷を負ってしう。
その傷に薬に混ぜて毒を刷り込まれ、それが原因で死んだといわれる。
この犯人の素性はオークヤー・カラホームの息のかかったものとも、長政のリゴールを統治
することに不満を持ったリゴールの人間ともいわれていますが、はっきりしていません。
 長政の死の翌年の1630年、オークヤー・カラホームは王位につきプラサートトーン王と名乗ります。
日本人義勇隊は、簒奪者であるプラサートトーン王を認めようとしなかったため、王の命を
受けたシャム軍によって、アユタヤの日本町は焼きうちされました。
この時多くの日本人が死に、生き残ったものも海外に難を逃れ、日本町は廃墟と化してしまいます。
 その後、海外に難を逃れていた人々も徐々にアユタヤに戻って来るようになり、2年後の
1632年にはアユタヤの日本町は再建されます。人口も一時は300〜400人まで増えますが、
日本の鎖国政策のためもあって以後、日本人の勢力は徐々に衰退してゆき、18世紀のはじめには
アユタヤの日本人町はなくなってしまいました。
 長政は1626年に故郷の駿府浅間神社に「戦艦図」を奉納したが、この「戦艦図」は火災に
あって焼けてしまったが、焼ける前に榊原長俊という人が写しておいたものが残っている。
後大正天皇即位の時従4位の位を賜った。
 [戦艦図]
1842年の馬場町絵図には、ここに「津の国屋九ヱ門と記されてあり、この所が生家の跡とみら
れる。現在跡地に石柱が立っているのみ。墓は西敬寺にある。
[生家の跡]

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