阿部興人
1845年、板野郡木津村長江新田(現・鳴門市大津町)で、阿部猪蔵の五男として出生。
16歳の時、藩士で叔父・岸蔵の養子となる。政局の激しくゆれ動く維新の世にあって、
儒者柴秋村、新居水竹らに学ぶとともに、やがて藩に出仕、小奉行に抜擢され藩政の難局
に立ち向かい、そのすぐれた才覚によって時代を見通し、指導的役割を果たした。
1870(明治三)年、庚午事変に連座(終身禁固)したが、許されたのちは県の役人として
治水問題などに奔走した。その後、美馬郡長、名西郡長、県議会議員を勤めつつ、中央にあって
は大隈重信・前島密らと親交をもち、県内においては田村英二・吉田熹六らと諜り1882年、
改進党徳島支部を結成。党員徳島県の十郡に及び、県会議員の入党あいつぎ、改進党地方部設置
のさきがけとなり、憲法制定、国会開設をめざした自由民権運動の先駆者となった。
一方、北海道開拓にも早くから強い関心を寄せ1878年のころ入植地選定のため渡道し、
その帰途、東京で農具の注文や技手らを雇い入れる手配をしている。1881年、実兄滝本五郎と
北海道開拓の目的で徳島興産社をおこし、社長となった翌年、五郎は北海道篠路材に270万坪の
未開地払い下げを受け17人の耕夫とともに郷里を出発している。
興人は、その後大蔵省地方財務課長兼官有財産課長、大阪市助役などを勤めるが、
1890年には北海道セメントを設立して社長となり、また同年の第一回衆議院選挙に徳島第五区
より立候補して当選(以来、改進党に所属して代議士生活12年)。
また、郵便報知新聞(改進党系)社長、日清戦争時の衆議院予算委員長、函館船渠会社の創立、
近藤廉平らと北海道胆振国虻田郡に750町歩余の組合農場の合同経営、函館鉄道株式会社・
渡島水電株式会社(後の函館水電)などなどを経営。とくに北海道セメントは日露戦争の好景気
で資本金を72万円とし、新鋭の大型複式回転窯2基を輸入、年産40万樽を製造、ウラジオストック
にまで輸出するにおよんだ。
1910年には函館水電は資本金を倍額にして第二発電所の工事に着手、また函館馬車鉄道株式会社
を買収して電気軌道をも兼営した。
こうして阿部興人は、役人として、政治家として、また実業家として、明治期の徳島のみならず
北海道の開化と発展に大きな足跡をのこしている。
その生涯は今も、郷里徳島と北海道とを固く結ぶ絆(きずな)となっている。
なお、1891年、著書『財政始末』を刊行(明治元年以降の歳入歳出額を累計積算して、
その原由を明らかにした)したことは有名。1920(大正九)年、東京大森の自宅で死去、76歳。