稲田騒動,庚午事変

 ここには、明治維新直後に阿波徳島と淡路島洲本で起こった稲田騒動(庚午事変)とその背景について記します。
この事件は日本史上最後の切腹刑がおこなわれ、また岩倉具視の謀略によって多くの犠牲者を出し、さらに北海道の荒れ地にその被害者たちを追いやった。

 [第壱部:歴史的背景第弐部:稲田騒動第参部:北海道静内移住]
←日常的によく使われるおもっしょい、阿波弁集

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 *稲田騒動(庚午事変)までの歴史的背景
 稲田家の祖とされる稲田植元(たねもと)は1545年尾張岩倉生まれ、1628年阿波脇町没。
尾張岩倉城、織田本家の家老筋の稲田大炊助貞祐の三男。蜂須賀小六と義兄弟の契りを約し共に行動し、 阿波蜂須賀藩筆頭一番家老的立場となり阿波脇城番を勤める。子の示植はのちに徳川幕府の命により淡路洲本城代となり、 稲田家は明治維新まで代々洲本城代を勤めた。
植元の幼名は亀之助、のちに太郎左衛門。通称左馬亮。隠居名宗心。

 「稲田家昔物語」によると、稲田植元の父、稲田大炊助(おほひのすけ)貞祐、(掃部助(かもんのすけ)とも)は、 尾張の岩倉城主、織田伊勢守信安に仕えとったらしいわ。植元の母は尾張勝幡城主織田弾正忠信秀の家臣前野彦四郎の娘で、 1595年9月17日脇町で没、89歳だったんじぇ。また植元の妻は織田信安の孫で、 1641年5月24日に洲本で亡くなっとるけんど、96歳にもなる長寿だんたんじぇ。
 さてこの織田伊勢守信安という人物の名は織田系列のなかではあんまし聞かん名やけんど、織田本家嫡流筋の守護代なんじょ。 織田家では内紛が起こってな、1478年、織田敏定と敏広と織田信安以前の昔に、 の間で激しい戦いが繰り広げられとったけんど、和議にて織田敏広が岩倉城で尾張北部を、 織田敏定が清洲で尾張南部を治めるという分割統治の時代になったんよ。(織田敏定は信長の曾祖父にあたる人)
 室町幕府より任命されとった尾張の守護は管領斯波氏であった。越前もまた斯波氏の守護国であったのだが、 みずからは京にあって、その領国を守護代に任せとった。そのために土地での勢力をしだいに失い、 越前では守護代の朝倉氏にとって代わられた。尾張では形だけの守護として清洲城に斯波義統がいたものの、 歌舞音曲などに耽って領国の統治などはおぼつかない。そこで清洲城には守護代として織田大和守信友が居たのであるが、 これまた無能で、奉行である勝幡の織田弾正忠信秀に任せとった。これにより織田信秀が次第に実力をつけてきてもた。 そして1555年、織田信友が、その家老坂井大膳にそそのかされて、守護斯波義統を殺してもたんじぇ。 ほれを知った織田信秀(1551年没)の亡き後を継いでいた子の織田信長は、清洲城に攻め込み信友を討ち、清洲城に入ったんよ。
 このころの北部尾張守護代岩倉城主は、織田信安・信賢親子で、信長と反目しとった。 父信安は信長との和議を考えとったけんど、子の信賢は、南部尾張の守護代の奉行の格下の家柄でありながら、 「なにさらしてけつかんのじゃ!」と対立姿勢をみせとった。 稲田家はその北部尾張守護代織田家の家老を代々勤めていたようだ。元は村上源氏の系統で、播州赤松で浪人していたが、 群雄割拠の尾張に出て織田家に取り立てられたともいわれる。しかしその稲田大炊助は、どういった理由で誰の陰謀か分からないが、 清洲の織田信長と稲田大炊助は内通しているというザン言に城主の信安はこれを信じ、大炊助に切腹を命じた。
 これにより1553年3月27日に大炊助は切腹をしている。大炊助には四男三女あったようで、長男、景元は 父の後を追って3月29日に11歳で自殺をし、次男の景継は1558年3月29日に伊勢で戦死している。 そして三男の植元は、大炊助の朋友であった蜂須賀小六正勝に預けられた。当時植元9歳である。 稲田大炊助と蜂須賀小六がどういった経緯で知り合ったかは定かではないが、稲田大炊助が岩倉城の重臣として、 戦争が起こるたびに尾張や美濃の土豪衆や、木曽の川並衆などに協力を求め、雇い入れていただろうから、 それらの頭領だった蜂須賀小六とは信頼すべき仲になっていた可能性はあると思われる。 ちなみに四男の吉勝は植元の養子となったといわれている。なお、三女たちのことは分からんのじぇ。
 ほんでその後の岩倉織田家では、子の信賢が家老稲田修理亮小次郎と謀り信安を美濃に追い出して城主となった。 この家老の稲田修理亮小次郎とは稲田大炊助の父なんじゃわ。

 その後、岩倉城の信賢は、1558年の「浮野で戦い」で織田信長に敗れ、翌1559年、信長は岩倉城を落城させ、 そして織田家本流による、1478年から1559年までの約81年にわたっての上四郡の統治は終わった。 そして織田信長は尾張の統一を果たしたかに見えた。が、まだ犬山城の織田信清がいた。 犬山城主の信清は信長の叔父信康の子であり、妻は信長の父の信秀の娘、 つまり信長の妹なので従兄弟であると同時に義兄弟である。....同じような名前がいろいろ出てきてややこしいが、 とにかくそういうことであり申候。
 犬山城織田家は最初、岩倉の守護代織田伊勢守に属していたが次第に自立してゆき、 守護代からも信長からも離れた独立した立場を保った。信秀の先代信定が城主の頃一時往来があり、 次男の信康が入って城主となったが、信康と信秀の死後は疎遠になっていったんやと。
 天文11年(1542年)九月、織田信秀は美濃斎藤氏を攻め、弟の犬山城主織田信康(信清の父)もこれに出陣。 信康は稲葉山井ノ口城下の村々を焼き払い町口まで押し寄せたが、夕暮れとなり撤退。その撤退のさなか、 手勢が半数ばかりになっていたところへ、斎藤道三が奇襲を掛けた。 このとき守備叶わず信康は討ち死にしてしもた。
 その後、城主となった信清は、甫庵の「武功夜話」によると、天文年間の末頃蜂須賀党などを味方に付けて、 信長の領地である春日井郡柏木・篠木郷を横領したという。しかし、信長と守護代家の信賢が対立すると信長に味方し、 浮野の戦い及び岩倉城焼き討ちに参加した。しかしその後、信安旧領地の分与を巡って再び信長と対立。 しかし最後は犬山城は信長に陥とされて、信清は甲斐に浪牢し武田の元で犬山鉄斎と称した。 犬山城落城は「武功夜話」によると永禄7年(1564年)5月としとる。
 ちなみに織田信安の家臣で後に高知城を築いた山内一豊は、岩倉城落城後は信長に従っとった。
[岩倉城跡] [犬山城]

 太閤記などによると稲田大炊助は、1560年、信長の桶狭間の戦いで今川義元を奇襲した尾張の野武士らの一人とされているし、 また美濃攻め時の、木下藤吉郎のいわゆる墨股の一夜城を築いたときの野武士の功労者の一人だったとされている。 さらに小瀬甫庵(豊臣秀次の儒医)の太閤記(1625年成立)には、 信長はこれらの作戦が成功し、この中の主だった稲田大炊助や蜂須賀小六正勝(1526〜1586)の他、 小六の弟蜂須賀又十郎、青山新七、青山小助親子、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、 松原内匠助、等の野武士達を家来にし、秀吉に付属させた。と、記してある。 しかし稲田大炊助は野武士や土豪のたぐいではなかったし、だいいち稲田大炊助は前記したように1553年に切腹している。 もしそれらの戦いに蜂須賀小六正勝と参加したとすれば、小六に預けられていた息子の稲田植元少年であっただろう。 実際「稲田家昔物語」には、墨股の一夜城では、大炊助ではなく、植元が活躍している様子が書かれている。 この「稲田家昔物語」は、稲田家にあった古記録などを編纂したもので、稲田植元がこの墨股で活躍したことより以降、 明治維新後の稲田騒動までの稲田家に関することが主に書かれている。それらを順に上げていくと、 濃黒股城築城、稲葉山城攻め、和田山城攻め、岩成主税介祐道を討った芥川城攻め、 本国寺合戦、三木城攻め.....などと続いていく。すなわち木下籐吉郎と行動をともにするようになってからの行動で、 それ以前の桶狭間の戦いには小六も含め参戦していたか否かは分からへん。 大炊助にいたっては既に物故となっている。戦国時代を取り扱った物語、ドラマなどは、信長、秀吉、家康等の伝記などは色々調査されるが、 脇役の稲田大炊助などは太閤記があまりにも有名なためか、詳細な調査もなく太閤記の記述をそのままに書かれているものが多いし 不明なところは作者の想像で書いているらしく、物語によって話のつじつまが違ってきたりするので混乱してまうけん困るなぁ。
 ちなみにこの太閤記にはこれらの小領主、土豪たちを盗賊のように書いとるけん、 蜂須賀家大名は後々まで盗人が大名になったと言われ続け、明治天皇までもそれを信じ、 明治の始め蜂須賀茂韶当主に会った時、そのことを言ってからかったそうである。 宮中晩餐会で出された盃を蜂須賀茂韶が持ち帰ろうとした。そのとき明治天皇が 「蜂須賀よ、先祖の血は末代までも受け継がれているものよのう」とのただぐいのことを言うたらしいわ。 しかし、この手の晩餐会では出された盃は持って帰るのが慣習になっとったうえに、蜂須賀茂韶は蜂須賀家の養子で、 出身は徳川11代将軍家斉の22男なんじぇ。さらには面白いことに、蜂須賀小六の孫の蜂須賀至鎮の娘の三保姫は、 鳥取藩初代藩主池田光仲の母で有り、この池田光仲の曾孫である池田仲庸は、なんと明治天皇の祖父の仁孝天皇の曾爺さんにあたる人。 蜂須賀家の血を引いているのはむしろ明治天皇の方だったんじぇ!。
 蜂須賀小六には荒々しいイメージがあるけんど、実際にはかなり温厚な人物だったようで、 秀吉の外交交渉などは小六がいつも活躍しとったようじゃ。

 秀吉は、なんらかの縁のあった蜂須賀小六を野武士集団のまとめ役とし、他の野武士集団も、ともに統一行動をとった。 秀吉が蜂須賀小六とどういった縁があったかは定かではない。太閤記による有名な二人の矢作川の橋の上での出会いは、 小瀬甫庵の作り話であって、当時その場所には橋はなく、しかも蜂須賀小六の活動範囲外である。 蜂須賀小六正勝は、美濃と尾張の国境辺りの土豪、木曽川の川並衆らの頭領として、前野小右衛門(のちに将右衛門と名乗る)などと組み、 その後木下藤吉郎と行動をともにした。
 蜂須賀家は足利氏の流れをひくものとしているが、これはかなり疑わしい。 もともとは、尾張守護斯波氏とのつながりがあるともいわれ、尾張国衙領である蜂須賀村(海部郡美和町)に住み、 下地を預かる尾張の土豪だった。小六正勝の祖父にあたる彦右衛門正成は、斯波義達と今川氏親が知多郡木田庄で戦った際、 斯波氏に従い討ち死にし、弟正昭が家督を継いだ。その二男が蔵人正利で、その子が小六正勝である。  小六は父の正利とともに、はじめ美濃の斎藤道三に仕えたようだ。道三との関係は、祖父正昭の頃に始ままる。 油売りの商人が蜂須賀家の近くで強盗に遭い、血を流して倒れていたのを正昭が家に連れてきて手当をし、暫くの間療養させた。 それから何年か経つと、松波庄五郎と名乗る武士が訪ねてきて「その節は大変お世話になり申した」と米三石を持ってきて、 「そのご恩返しに毎年米三石をこちらへ届けさせていただきたい」と言った。そしてその元油売りの男はさらに出世を重ね、 美濃の守護代斉藤氏をのっとり、さらに守護土岐氏をも追放した。そして美濃の守護になったが、 あいかわらず蜂須賀家には米三石が毎年送られてきた。 道三を義理堅いと思ったかどうかは判らないが、蜂須賀は尾張にありながら美濃の道三に与していた。 与していたといっても、もともと野武士といわれる土豪や川並衆達は独立心が強く、主家を持たないでいた。 ふだんは畑仕事や商人の商品運搬等の警護をしていた。特に三河商人の木綿輸送の警護等。 保護主義の近江商人が盗賊を装って異国の商人を襲うこともしばしばあったようだ。 しかしそれだけでは蜂須賀一党を維持してゆくことは困難で、戦があると傭兵として参加していたようだ。
 小六は事情があって母の実家である宮後村の安井家に住むことが多く、 叔父の安井弥兵衛の屋敷がいつのまにか蜂須賀家屋敷と呼ばれるようになっていた。 宮後村は岩倉城主織田信安・信賢親子の領地である。 尾張織田信秀領内の土豪らの多くは当然のように信秀に与していたが、蜂須賀は信秀領内にありながら美濃方に与していたのであれば、 蜂須賀村に住み辛いというのはあったのかもしれない。
 秀吉が日吉といわれていた少年の頃、尾張中村の日吉はこの頃の蜂須賀小六の世話になっていた可能性はありそうやな。 その後秀吉は信長に仕えるようになってからも小六に多くの協力を求め、後に蜂須賀党などの尾張の多くの土豪を召し抱えるようになった。
 秀吉(木下藤吉郎)はかつて信長の側室吉乃の方(本能寺の変で信長と共に討たれた長男信忠の母)の生家、 郡村の生駒家に、信長の馬引きをしてちょくちょくやって来ていた。生駒家は名前の如く大和の生駒から尾張に来て財をなした豪商であった。 蜂須賀小六は、つねに仕事をもってくる隣村、前野村の土豪前野小右衛門と義兄弟の契りを結ぶほどの仲となっていて、 この生駒家の商品護送の仕事を小右衛門から紹介されていたようだ。 さらに生駒家で吉乃を通じて信長、藤吉郎、小六はともに奇遇し、互いに知り合いの間柄となり、主従の結び付きが生じたかもしれない。 ちなみにこの信長の側の吉乃は美濃可児郡の土田弥平治に嫁いでいたが、 弥平治が死んで実家に戻っていた。弥平治は信長の母の弟、つまり吉乃は信長の義理の叔母だった人である。 しかし信長は年上の吉乃を籠愛すること一方ならない様子で、吉乃との子、信忠を他の側の兄弟に比べて特別大切にしていた。
 信長亡きあとの秀吉の天下とりには必ず小六が軍師役として存在し、彼の知謀によって敵を壊滅に導いている。 中国攻めに際して毛利方の武将とのあいだに取り交わされたいくつかの手紙の多くが、黒田官兵衛との連署になっているし、 毛利との和睦に関しても秀吉から任され備中に入り交渉にあたっている。
 信長が京都進軍から岐阜に帰った後は、秀吉軍が京の治安を保っていたが、秀吉も小六に京都の治安を任せて京を離れていた。 小六は慣れない筆を取って、禁裏御料所の回復、公家、寺社の領の復旧願いの正否を採決していた。 相国寺の光源院の所領を定めた小六の書状が今に残っている。この文中に「木藤殿催促仕可進之由 申候」とある。このころ小六は秀吉を「木藤殿」とよんでいたようだ。
 1586年、蜂須賀小六は61歳でこの世を去り、大阪天王寺の国音寺に葬られ、法名は福聚殿良巖浄張居士。 しかしそれからずっと後の1971年、大阪市の区画整理で移転を迫られ、蜂須賀家万年山墓所(徳島市佐古山町) に移された。


 さて秀吉が天下を取ると、四国攻めに項のあった蜂須賀小六に阿波一国を与えようとするが、 小六は野武士の育ちであることや、老齢であることをなどを理由に、大名は性に合わずと辞退し、 息子の蜂須賀家政(1558年〜1638年)に阿波一国を与えるよう秀吉に言った。
 このとき稲田大炊助の息子の稲田植元が蜂須賀家の筆頭一番家老という形で阿波に入ったが、しかし稲田氏は単なる家老ではなく客分のようだった。 蜂須賀氏との間には次のようないきさつがあったようだ。
 蜂須賀小六と稲田植元の間には義兄弟の約束が結ばれ、ともに秀吉の天下取りの為に戦った。 そして秀吉は蜂須賀小六に龍野5万3千石を与え、稲田植元に河内2万石を与えようとしたとき、稲田植元はそれを断った。 植元は、「拙者は小六正勝と兄弟の契りを結び、ともに働かんと約せり。然るに今大封を給はれりとて、 河内に赴いては正勝との約束を果たすことが出来ぬ。希くば拙者の請を許され」と固く辞した。 これを聞いた秀吉は潔白なる義を重するものとして、色々な引き出物を植元に与えこれを許した。 そして稲田植元は客分として蜂須賀小六正勝と共に龍野に入った。
 さらに蜂須賀家政が阿波に入るときも、小六が息子のまだ若い家政に一国を任せるにあたって、 信頼できる植元を老臣として付いてもらうことにしたようだ。長曽我部元親を押さえ四国を平定はしたものの、当時、 阿波には未だ多くの有力土豪や山間部の土豪、地侍、三好氏の残党、土地持ち本百姓の一揆など。 また新たに抱えた諸浪人たちが家政に服さないのではないかと心配事は多かった。 小六が稲田植元に宛てた書状にはそのような心配事を察せられる、 植元に対して息子の家政をどうど宜しくといったようなことが書かれている。
 このため1585年、蜂須賀家政が、阿波の領主になると、稲田氏は約1万石(のち1万4千石)という大名並みの知行地をもらい、 多数の家来を抱えた。 そして最初に脇城の城番となる。このとき稲田氏は譜代の家臣 88騎を龍野から連れて来たといわれる。その後阿波で新規家臣を多く召し抱えて合わせて約500名となった。 これらの名簿は脇町の稲田家の猪尻役所に残されていた「稲田家御家中筋目書」という古記録にある。 中には旧武田の家臣や、加藤清正の家臣だった者もいた他、いろいろな国の者がいて、諸国遍歴浪人といった感じだ。
それら稲田家旧譜代のうち、 [記録の残されていた者の名簿はこちらをクリックして下さい。]
 徳川時代、1万石以上が大名である。もともと蜂須賀家とは別格の稲田家、当時の阿波は17万石(のち26万石)であるが、 この規模の大名が万石を越える大名クラスの家臣を持つことは少なく、いかに稲田家を特別扱いしていたかがうかがえる。
 1597年の分限帳によれば、2代示植は9378石とあり、その知行地は美馬郡の脇・猪尻・拝原・矢倉・ 重清・半田・岩倉、三好郡の加茂、板野郡の広島など、北方に集中していた。
[1870年稲田騒動時の記録による阿波分の稲田家臣人員とその居住地の詳細はこちらをクリックして下さい。]

 蜂須賀家政は徳島城の他に阿波九城を整えてその他の累城は全て破壊した。
その阿波九城の配置は以下の通り。
  名東郡 一宮城 益田宮内充一正   兵300
  鳴門市 岡崎城 益田内膳正正忠   兵300
  板野郡 西条城 森 監物      兵300
  麻植郡 川島城 林図書助能勝    兵300
  三好郡 大西城 牛田掃部助一長   兵300
  那賀郡 仁宇城 山田織部宗重    兵300
  阿南市 富岡城 賀島主水正政慶   兵300
  美馬郡 脇城 稲田太郎左衛門尉植元 兵500

 幕末時の阿波藩五大家老
  稲田氏   1万4千石
  賀島氏   1万石
  池田氏   5千石
  蜂須賀信濃 5千石
  蜂須賀駿河 5千石

 稲田植元も名目は筆頭家老ではあるが、あたかも独立の大名のごとく脇城下町を独自に発展させた。 また、四国の山間武士達は未だ豊臣体制に服さず、ゲリラ活動を行っていた。そして祖谷山騒動や大栗山 一揆には脇城から制圧に出陣した。戦乱で荒廃した町と三好氏以来の脇城を大改築して堅牢に築城した。
 経済面では、信長以来の楽市楽座を行い、地子銭も諸役も免除し、商人の自由な出入りを許可し、 生国も問わなかった。そのため、四国内はもとより、中国地方からも商人達がやって来るようになり、 栄脇町はえた。ふつう城番では城下町の繁栄まで考えないのだが、稲田氏は考え実行した。 これらの繁栄ぶりは本藩蜂須賀家臣らの嫉妬心を買っていたようだ。
 その中でも藍商が特に栄え、現在でもこの地方の藍染めは有名になっている。 又、「うだつの町」として古い町並みを保存していて、映画「夢をつかむ男」のロケ地となり、 その舞台となる映画館のオデオン座などもむかしのままの映画館の状態で残っている。
 吉野川河畔の脇町は川を利用すれば紀伊水道、瀬戸内に出られ、讃岐、伊予、土佐への交通の要所であり、 軍事的にも商業的にも利便で、三好長慶以前の時代からの出城が築かれていた。

 その後の稲田植元は、秀吉の播州三木城攻め、岸和田援兵、小田原攻め、朝鮮出兵に出陣し活躍。 関ヶ原では東軍として出陣、功を上げ五百石を受ける。その後隠居し、宗心と称す。
 また大阪冬の陣では軍艦として活躍し、家康から金百両と衣服を受ける。
 そして1628年8月18日、脇町で没し貞真寺に葬られた。法名は端祥院殿印鉄宗心大居士。

       [稲田植元らが発展させた城下町、脇町]

 蜂須賀家政は、関ヶ原の合戦では、阿波を豊臣秀頼に返上し、西軍に付いたものの病気と称して参戦しなかった。 そして息子の蜂須賀至鎮(よししげ)は、父から家臣らの多くを与えられて浪人となり、 東軍に付いた。稲田氏も至鎮と行動を共にした。このようにして蜂須賀家はお家の存続を謀っていた。 そして関ヶ原の合戦で功のあった蜂須賀至鎮には再び阿波が与えら、さらに大阪夏の陣後には、 淡路一国等が加増され26万石になった。そして稲田家がこの淡路洲本城代に徳川家から任命されるのであるが、 稲田氏の洲本城代職成立については元和説、寛永説がある。実はその職種と藩内における政治的位置についても諸説有り、はっきりしていない。 稲田家は外様大名に対する幕府の付け家老とか、封建的な主従関係は存在していなかったなどの説もある。 ただ寛永期における幕政の特質と外様大名に対する統治策を考えると、幕府の大名領分割統治策によって 寛永期(1641年頃)に洲本城代職は成立したと考えるのが無難であろう。 これは幕府の一国一城制度(1638年)が行われ、藩主の居城以外の城は壊さなければならなかった。 脇城も当然、破壊しなければならない。このとき蜂須賀藩二番家老の賀島氏が城番をあずかる富岡城(牛岐城) がただ壊されただけなのに対して、稲田家は幕府の命により、淡路洲本城の城代、仕置役となる。 城代、仕置役には行政や裁判権があり、一種独立の趣がある。これは幕府がこのように大名の力を分散させて、 大名の力を削ぐ、というような策を全国で行っていたその一つである。 このころの徳川幕府は、前田氏、伊達氏、毛利氏、島津氏、蜂須賀氏などのような外様の大藩をまだまだ警戒していた。 なおこの二番家老の賀島氏は、元今川義元の家臣で、今川家滅亡後は浪人していたところ、蜂須賀小六と知り合い、 親族同様の間柄となったようである。

 一方、元和説の洲本城代成立の方では、大阪の陣では蜂須賀至鎮とともに稲田氏は植元、示植、植次、と父子孫と三代揃って出陣した。 そしてハナワ団右衛門を大将とする敵が蜂須賀陣へ夜討ちをかけてきたところ、稲田隊が返り討ちにし、 孫の植次九郎兵衛は15歳で殊勲をたてた。このとき家康から感状をもらったのであるが、そのとき家康から 「もし九郎兵衛という名でなかったら世の中でこの度の戦功が騒がれるであろうに。 九郎兵衛はあまりにも年寄りめいた名だ。何々丸とか何々若とかであれば天下に名がひびくであろうに、 人の名は気を付けて付けなければ損をする」と言われて誉められたことから、 四代植栄以降からは九郎兵衛を襲名するようになったといわれる。
 1615年(慶長20年)6月2日、伏見城にて蜂須賀至鎮は淡路の加封が仰せられ、そして将軍秀忠より、その洲本城代には累代、 稲田氏を仕置くこととの上意があった。将軍家も稲田家は信長に仕えた当時より軍功の多い家柄であることも知っていたし、 この度の手柄もあったため城代に取りはからった。 これは藩主にも勝る優遇であった。としたところから洲本城代成立元和説がいわれる。
 この元和説のようなこともあったため、寛永期の1641年に洲本城代・仕置役を徳川幕府より承ったと考えれば、 もっとも理解しやすいと思われる。ただここで注目すべき史実に、稲田家はほとんど洲本仕置役に世襲的に任命されてはいるが、 常任ではなかったということだ。寛文4年に一時、洲本仕置役は罷免されるが、 寛文6年に幕府老中久世大和守が洲本仕置役を復活するよういったので寛文8年に復職し、 その後も何度か他の者と交代しているし、また時には徳島本藩の仕置役を勤めたりもしている。

 こうして稲田氏は阿波淡路両国に知行地はまたがり、阿波分4740石、淡路分5340石余りとなり、 さらに3代植次の1647年、それまでの本知1万97石余りに新地4100石が替え地加増された。 4代植栄の1660年になると、阿波分6879石余り、淡路7318石余りに、美馬郡拝原の新開高160石を加えて1万4357石余となる。 また三代植次の子、植栄からは7才で江戸に質として出され、11才で家督を継いだため、12才で洲本に戻るなど大名格の扱いを受けた。 ちなみに植栄は植次の妾腹である。 実際小大名より実力はあった。江戸時代、1万石以上の家老は「天下五大家老」として5人いた。
 阿波淡路両国の稲田家の配地は、名目上は合わせて1万4千石だが、実質は3万石の経済力があったといわれる。 これは「延地」といわれる土地が多かった為だ。延地とは、実際の丈量以外の土地で、 一間竿を打ち返し打ち返しそれが何間あるというのでその竿の入れ方で一間が一間以上になるという曖昧な土地である。 その延地が多かったのが稲田の配置で、しかも肥沃で水害や干害のほとんどない阿波でも宝庫といわれた土地が多かった。 又、配置を受けている者はその禄高に応じて税金を払うが、稲田家の如き役目を持つと免除される。 これは役目の報酬とされていた。さらに藩主の参勤交代は通常家老の一人がお供をし、これがお家の大出費となるのだが、 これも免除されていた。さらにさらに、武士は金や年貢米、麦が余ってもそれを利殖にまわすことは許されず、 武器を買ったり壺にでも入れて地中に埋めておくのだが、稲田家ではそれも大目に見られていたのか、 大阪の千草屋という大名の御用を承っている所へまわして利殖を得ていた。
 
 [洲本「金天閣」の外観と内部]
 ( 「金天閣」は、1641年、阿波藩の迎賓館として、三熊山の北麗の洲本城内に建てたといわれる。
 書院造りで、大きな唐破風の玄関を入ると、その奥には上段の間があり、その天井が金張りであることから
 金天閣となずけられた。あちこちに見られる立派な飾り金具や彫刻は江戸時代初期の特徴をよく示している。
 明治のはじめ、洲本城内の建物のほとんどが取り壊されたが、玄関と書院だけが城外へ移築され、
 金天閣として、現在洲本八幡神社の境内にある。


 
 [三熊山の洲本城と、洲本城天守閣よりのやがて北海道へ移住することとなる洲本港]
 ( この地に最初に城を築いたのは、1526年(大永6年)、阿波三好家の重臣、由良城主安宅治興だった。
 安宅氏は紀州熊野で熊野灘を本拠とした海賊でした。1350年(正平5年)、三好氏から瀬戸内の海賊征伐
 の指示を受けた安宅氏は淡路島に由良城を築き、ここを本拠に島内八ヶ所に築城した。その一つが洲本城。
 淡路一国を手中に治めた安宅治興の跡を継いだのが養子冬康であったが、1581年(天正9年)、織田信長
 より淡路島攻略を命じられた羽柴秀吉の軍が由良城を攻め落とし、冬康は秀吉の軍門に降り洲本城を開城。
 その後は仙石久秀・脇坂安治・藤堂高虎らが城主となった。脇坂安治が城の大改修を行い、このとき洲本
 城と町の基礎が築かれた。その後蜂須賀家の城となり、さらに城を大改修し、城には天守閣があげられ、
 大小幾つもの櫓と白塗りの塀が巡らされた。しかし修築が終わった頃、天下太平の時代になっており、
 1642年(寛永19年)三熊山の城を廃して麓の館を藩庁とした。


 洲本城には稲田示植(しげたね)が2代当主として入った。当時の洲本の家臣は332人という記録も ある一方、稲田氏が洲本城に移った後の猪尻には稲田氏の侍300戸ほどが残っていたともいう (幕末には、脇と猪尻に350人。美馬郡全体では1800人。淡路を除く阿波全体で2700人) これらの侍はヨーロッパの貴族のように、地主として農地経営をしてる。江戸封建時代に、他の藩では 武士が地主となり農地経営など行うことはかった。稲田家では彼らのことを「猪尻衆」とよんでいた。 べつに蔑視しているわけではなかった。
 
[脇城破却後の猪尻稲田邸]
(洲本に移ってからも累代稲田氏は脇町の家臣達によく会いに来ていたそうだ。)

 ところが、元々からの蜂須賀家の上級家臣たちは、よそ者の稲田家が特別扱いされるのを良くは思わなかったようである。
また、稲田家臣団は蜂須賀家臣団からみれば、家老の家臣、陪臣であると蔑視していた。本藩武士が白足袋を着用するのに、 あさぎ足袋しか認めなかったなどの差別を受けた。(洲本の稲田侍はそうだが、 阿波配地の稲田侍は白足袋を履いていたという。少し遠慮してか、わざと少し汚したのを履いたとも。)
 しかし稲田家臣らは、稲田家は家臣ではなく客分である。素性をいえば初代稲田植元は織田家の老臣稲田大炊助貞裕の子であり、 蜂須賀小六は土豪あがりにすぎない。洲本城代も、大阪冬の陣の戦功を家康に認められて、その命によりなったので、 蜂須賀家の恩封ではないという意識がある。実際、徳川秀忠の時代の徳川家の文書に「稲田藩」としるしたのがある。 こういったわけで両者の間では、隠然たる反目があった。 これが明治維新時の版籍奉還時までもしこりを残し、稲田騒動という事件が起きた。

 稲田主家が洲本に移った後の猪尻(脇町)の重要な商業地は蜂須賀藩の代官が管理するようになる。 これが蜂須賀家の大きな利益となり、幕末には、名目は26万石だが、実質は50万石とも70万石ともの実力があったといわれる。 当時の徳島城下の人口は日本で5番目だかに多かったとか。 当時国勢調査とかは無かったので詳しいことは分からないが、明治五年のいわゆる「壬申戸籍」では、 全国の人口が3311万825人で、徳島県の人口が64万2172人であった。参考までにどう調べたのかは分からないが、 明治初年の徳島藩の人口は69万9637人(内士族2万82人)、石高44万2835石という記録がある。
 このため、明治維新後の蜂須賀家当主茂韶(もちあき)は大きな財を蓄えていたため、維新後の混沌期にイギリスやフランスに留学し、 帰国後多くの事業を興し、北海道蜂須賀農場開拓、さらに文部大臣、東京知事、遺族院議長などにもなっている。
 ちなみに、この蜂須賀家15代最後のこの当主は、蜂須賀小六の子孫ではなく、徳川11代将軍家斉の22男の子である。 小六の子孫は江戸中期には途絶え、お家断絶になるところを幕府の命により高松藩から養子をとり、お家を存続させていた。
 4代頃からは病弱な藩主が続き、藩政は重臣たちの手により行われていた。そしてまた9代蜂須賀至央が病弱な為、 秋田佐竹藩義通の第4子「重喜」を、養子とする。この頃、巨額の負債に苦しんでいた藩政を立て直すため重喜は、 重臣たち主導の藩政を、藩主主導の藩政に変えようと、筆頭家老淡路仕置き役の稲田家を味方に付け、重臣たちの意見を排除した。 しかしこの殿様は「バカ殿様伝説」として歴史に名を残すこととなる。 元々、常陸の大大名で伊達家と争っていた佐竹家であるが、関ヶ原の後、秋田に減移封となった。 この佐竹分家の2万石の小大名が本家の藩主を毒殺し、長男を藩主に据えた。そして4男をどこぞの大名の養子にと考えていたところ、 なにがしの縁で阿波徳島藩蜂須賀家藩主が途絶えたところ、都合よく養子となる。 これがバカ殿伝説を作った佐竹重喜改め蜂須賀重喜第10代藩主である。17歳であった。 温暖肥沃で根雪のない阿波蜂須賀藩の石高は表石26万石(実高50万石)の大大名であり、 蜂須賀家臣たちは重喜を2万石の小大名の四男と軽んじていた。 蜂須賀家筆頭家老洲本城代の稲田氏ですら5万石の実力があったのだからそれ以下である。 重喜はそういったコンプレックもあったようで、独裁藩政を行うようになる。勝手に家臣たちの禄を減らしたらり、 領民に新たに税をかけたり、阿波藩の米石高を大量に勝手に実家の秋田に送ったりした。 挙句に鳴門の渦潮に家臣を乗せた船を突っ込ませてそれを見て喜んだり、理不尽な理由で切腹させたり、 山中花見中に突然側近に滝に飛び込むよう下命したりという。
やがてその暴政は幕府の知るところとなり、藩政を混乱させたとして隠居を命じられる。

 その後しばらくして、また養子を迎えることになるのだが、それが徳川将軍家斉の22男であるから、 とうのむかしに蜂須賀小六の血は途絶えていた。
 現在、蜂須賀の子孫はアメリカで企業を興し、住んでいる。2002年、大雨の被害により徳島城跡の城山が崩れ、 市道との境界線を確認するため、徳島に帰国していたそうだ。
 また、徳島市にある眉山の蜂須賀家代々の万年山墓所は、歴代藩主以外のものは荒れ放題なんよ。 万年山墓所は、藩政改革を進めて儒教を奨励した十代藩主・重喜(しげよし)が、 菩提寺の興源寺から仏教の影響を受けずに埋葬するために造った。 代ごとに藩主、正室、側室、子供らの墓が一区画内に建てられた形態に特徴がある。 管理していた元家臣団が第二次世界大戦後に絶え、墓石が倒れるなど荒れ放題になっとったんやけんど、 2004年頃より地元団体らで整備し始めたんよ。

 11代15代蜂須賀茂韶(1846〜1918年)

蜂須賀家祖:小六正勝 1:家政 2:至鎮 3:忠英 4:光隆 5:綱道 6:綱矩
7:宗員 8:宗英 9:宗鎮 10至央 11:重喜 12:治昭 13:斉昌 14:斉裕
15:茂韶


 *稲田騒動(庚午事変)
 幕末、蜂須賀家当主斉裕が徳川の出であり、松平姓も許されて松平斉裕であったため、最初は佐幕派であった。 しかし、いよいよ情勢が不安定になると尊王か佐幕か日和見になり、右往左往していた。
 ところが稲田家主従は本藩の優柔不断を尻目に、最初から濃厚な倒幕派であった。本藩から陪臣として差別されていたことも、 討幕へと流れていったのであるが、特に猪尻衆の尾形長栄、竹沢寛三郎、南薫風、工藤剛太郎らは尊王の大儀を早くから説いていた。 幕末の稲田家に課せられた淡路警護では、早期から外圧を肌に感じ、尊王攘夷運動に傾斜していった。
 稲田14代植乗の頃、阿波藩では1829年12月に海部郡牟岐浦の沖合に黒船が来航し、大騒ぎとなる事件が起こった。 それを契機として稲田家は、阿波藩の海防に重要な役割を担うようになる。
 稲田植乗が1860年病死し、17歳で当主になった植誠はさらに海防に力を入れた。そのためには家臣団を充実する必用があった。 1832年に653人であった家臣が、1842年には1311人。さらに1849年には3000人にも増えていた。 この新規召し抱えには多額の財が必用となり、藩内の豪農たちから多額の借財をしていたようだ。 しかし村役人や豪農の次男、三男を、冥加銀をおさめることを条件に召し抱えるという巧妙な手段で、いっきょに負債整理もできたようだ。 稲田の配地では、無格無禄の家臣が多くいた。 配地の豪農や庄屋、村役人らに特別の身分を与え、苗字や帯刃、乗馬を許し、夫役も免除し、本百姓の上に立たせて配置における各種の役目をもたせていた。

 稲田15代植誠(たねのぶ)[1844〜1865年]、幼名復之助は、兄・植乗の養子となり家督を継ぐ。 柏亭と号し詩書をよくした文化人であった。勤王の志厚く、稲田私学校「益習館」を中心に文武を奨励し、 志士を保護し、尊王攘夷運動に活躍する士志を輩出させた。1862年の伏見寺田屋事件には、独自に兵を出している。 さらに徳島本藩主斉裕に、天下の情勢や尊王攘夷を説き、藩論を討幕路線に導こうと努力した上、さらに高松藩などにもそれらを説いた。 1863年には京都に召されて天皇から天盃を下賜され、当分の間京都に留まって国事に尽くすよう達せられたが、 その後淡路の海防を厳重にするよう勅命があり、同年6月に洲本に戻った。しかし1865年7月19日、わずか20歳で病死した。 法名は完功院殿勲道義誠。墓は洲本江国寺の稲田家墓所。明治29年には従四位を贈られている。 この植誠の父は13代芸植の弟で、植美という。 植美はひとかどの人物であったらしく、8代植久の創設した稲田学問所を13代芸植の代に益習館と改名し、 その館長となり三田昂馬らの志士を育て、このような行動を14代植乗、15代植誠らに指導したようだ。 そしてその後の稲田家を継いだのは、まだ11歳の邦植であった。


「増補稲田家昔物語」表紙と目次第一頁目1954年12月版
(他に1938年の初版あり)共に非売品
国立国会図書館古典資料室、徳島県立図書館、洲本市立図書館所蔵、いずれも館外持出禁。
(全て手書き)

 稲田家はしだいに朝廷に接近し、藩校の学風も阿波藩寺嶋学問所が江戸の影響を受けた朱子学であるのに対し、 洲本学問所益習館は京、大坂からの影響を受けたけん園学派というような対照をを示していた。 これは徂徠学で、朱子学に飽きたらぬ人々が経典の再検討、本文批判などをおこなうものでもあった。 益習館には、頼山陽よりひとつ年少の、大坂の儒者篠崎小竹が出講していた。また、猪尻の漢学者、三宅民助家は代々漢学と俳句を良くし、 多数の門弟をもった。その他、住友家、山下家、大塚家など、儒者の家々が猪尻周辺にあった。 さらに猪尻には稲田家臣の武田氏が、武芸と学問の両方を教授する「神全塾」を自宅に開いていた。
 稲田志士たちは早くから土佐藩士達に、しきりに尊王倒幕や脱藩をもちかけていたという。 これが一つのきっかけで、土佐藩は倒幕側に加わる要因になったかもしれない。
 稲田家は、豊かな経済力をもって、公卿とも縁組みをするなど、その地位を高めた。11代敏植の妻が高辻中納言家の娘である。 また尊王攘夷倒幕派や長州藩のそれらにも、資金やその他の援助は大きかった。
 11才で稲田植誠のあとを継いだ稲田九郎兵衛邦植と家臣達も、大阪や京都の屋敷を拠点に、岩倉具視や天皇との関係をさらに深めていった。 なお江戸には永代橋向かいの深川蛤町海岸に稲田屋敷があった。
 稲田家ではその豊かな経済力で多くの家臣を召し抱えていた。それも阿波・淡路にとどまらず、大阪、京都、江戸をはじめ、 全国各地に点在していたようで、臨時雇い的な者も含めると4千人ぐらいいたという。阿波藩二番家老の賀島氏も一万石程あったが、 家臣は少なかったし、全国的に見ても家老がそれだけの家臣を召し抱えるということは稀である。 稲田家には百石以上もの高給取りの家臣が何十人もいて、井上九郎右衛門などは550石もあった他、 林弥左衛門2百50石、曽我部直左衛門160石、三田昂馬百石など百石以上17人、50石以上20数名、30石以上10数名。 それだけに稲田家臣の中には優秀な人物も多く、三田昂馬などは蜂須賀茂韶のお気に入りで、いつも侯爵邸へ来ると食事に誘っていた。 また剣術の達人も多く、吉田鉄之助という剣客は本藩でも恐れられていた。稲田の家臣達も本藩家臣らに負けてなるものかというような思いもあったようだ。
 こうして稲田主従は、1864年の禁門の変(蛤御門の戦い)や第一次征長戦では稲田藩旗を掲げて独自な活動を展開し、 1868年には朝廷からも独立藩の扱いを受けるようになっていた。さてこの禁門の変も長州征伐も、尊王攘夷倒幕の長州藩と戦ったのだが、 これはいくら尊王攘夷といっても長州側が御所を焼き討ちしたり、中川宮を殺害したり、さらには天皇を強制的に長州へ動座させたりというように、 計画が極端なものに発展してくると、それらに協力するのは困難となる。天皇を玉と呼び、先に玉を手に入れた方が勝ちだなどという、 主体であるはずの天皇を、自分たちの政治目的のために道具化し、ほしいままにあやつることであって、 かりにも志士をもって任ずる者のなすべきことではないと考えていた。しかし天皇の有史の歴史始まって以来現在まで、 天皇は常に政治目的のために利用され続けているのだが。
 この騒動の前、稲田植誠は長州勢の先発部隊の艦船を淡路で迎え長州藩家老の福原越後と協議し、 その後上京して公卿や諸藩のあいだを奔走し、武力衝突を避けようと努力していた。しかしいよいよ開戦となると、 稲田家も徳島藩兵とともに石薬師門の守備についた。長州は尊攘運動の同士として、その心中は複雑ではあったが、 現に長州勢は御所を襲おうとしており、討伐の詔勅が下った以上、長州は朝敵である。
 この禁門の変は一日で勝敗が決まったのであるが、蛤御門での戦いが一番激しかったので蛤御門の戦いともいわれる。 蛤御門では長州勢が会津兵を敗走させ、京都守護職の会津藩主松平容保の本陣に迫っていた。 そこへ乾門で長州勢を撃退した薩摩勢が、稲田家を名指しで指名して、共に蛤御門に救援に向かい長州勢を撃退した。 この後、稲田家は守衛総督一橋慶喜から蛤御門での働きが抜群であったと賞辞を受けた。 しかしこれが徳島将士たちを刺激した。稲田は徳島藩臣である。もし稲田に戦功が有ればそれは徳島藩の戦功であり、 賞辞は徳島藩の代表が受ける者であるとして、徳島藩司令小野又兵衛が会津候に苦情を申し出たという。 その後、討幕派の勢いは一時弱まった。朝廷内の討幕派だった七卿の長州落ちもあった。徳島本藩内でも実は勤王派と佐幕派に分かれていた。 しかし事件後、勤王派は入獄されたりして完全に閉息してしまった。 稲田家でもこのとき三田昂馬、内藤弥兵衛、林徹之充らが拘禁の身となった。 しかし稲田家では徳島本藩とは異にして、勤王路線を突き進んだ。
稲田家の紋章「丸に矢筈」と蜂須賀家の紋章「丸に卍」

 中納言一橋慶喜が徳川15代将軍に就いて僅か半月後の12月25日、公武合体を主張する孝明天皇が36才で急死した。 これによって倒幕派の勢いは決定的なものとなっていく。
 孝明天皇は攘夷論者ではあるが倒幕派ではない。三条実美ら長州、薩摩らと手をくみ倒幕を策した七卿を朝廷から追い出したぐらいで、 彼ら尊王攘夷派にとっては当の天皇が壁であった。
 死因は天然痘ということになっているが、病は快方に向かっていたし、死ぬときは凄まじい形相で苦しみ悶え、 目、耳、鼻、口、肛門などから噴血して死んだ。天然痘ではこのような死に方はしない。崩御の直後から毒殺の噂が流れた。 定説では毒を仕込んだのは岩倉具視の姪にあたる女官で、首謀者は岩倉具視だということである。 岩倉は文久2年にも天皇毒殺未遂の疑いがもたれたことがある。この時岩倉は親幕派で、幕府から多額の賄賂を受けて、 皇妹和宮の徳川家降嫁に反対であった孝明天皇を除こうとしたということである。 岩倉はこの事件以来、洛外の岩倉村に蟄居の身であったが、その間に何故か武力倒幕派に豹変した。 長州、薩摩と接触を深め、宮中の反幕派公卿を掌中におさめて、いつのまにか隠然たる黒幕にのしあがっていた。 わずか150石の平公卿とは思われぬ凄腕で、何をやるか分からないようなところがあった。 そして孝明天皇の死後、追放されていた倒幕派の公卿たちがいっせいに宮廷に復活した。
 幕府は第二次長州征伐に軍を出しながら、諸藩の協力が得られずいっこうに実現しなかった征長軍は、 天皇の大葬を口実に征長軍の解兵を布告した。しかし諸藩の兵は休戦と同時に自国に引き上げてしまっていたのだから、 いわば証文の出し遅れで、実際には無意味なものとなった。これにより幕府の権威はいよいよ地に落ち、 岩倉具視らのさらなる悪企みにより、徳川慶喜は朝敵とまでされ、版籍奉還を余儀なくされる。
500円札の肖像画にもなった岩倉具視だが、相当の悪でもあったようだ。

 徳島藩士たちは、稲田藩士たちを、家老の家来にすぎへん陪臣と、当初から差別しとった。 幕末、徳島本藩の意向に反して稲田家では討幕運動を活発にしよった。若き藩士たちは稲田隊を結成し、 京都や江戸で活動しよった。稲田隊は全員が現状の打破ということでも一致し、他の否応に参戦している兵士らとは意気込みが違っていたのは当然であったろう。 そのためかめざましい活躍を各地でみせている。上野に立て篭もった徳川勢を攻め、彰義隊の隊長天野八郎を生け捕った。 鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争にも参陣、会津奥州攻めにも出兵し、新政府軍の高い評価を得た。戊辰戦争に際し、 東征軍の一翼として洲本藩とか稲田藩とかよばれ、稲田家から多くの志士を輩出させた。なお家臣工藤剛太郎は上野寛永寺で討死している。  鳥羽伏見の戦いでは、岩倉具視から「稲田藩」と名指しで兵力の提供を求められると、即座に300人余りの在京稲田家士団を繰り出した。 このとき薩摩が1500人、長州が400余人、芸州が160余人、土佐に至っては40人余りあった。 稲田家が即座に300人余りの兵を出したのはものごっついなぁ。この稲田隊は 「戦士隊」(総督:稲田九郎兵衛)と言うた。(これら幕末に活躍した諸藩の諸隊は 「幕末英傑録」HP の幕末諸隊総覧 に詳しく出ています。

 それに反して、徳島本藩は、この期に及んでまだ去就を決めかねている有様で、幕府方の要請に僅かな藩兵を出して、 会津兵200余人とともに布陣しとった。
 この鳥羽伏見の戦いは幕軍の惨敗に終わり、慶喜は大阪城を脱出して海路江戸に逃げ帰ったのである。 ちょうどこの日、徳島藩主松平斉裕は48歳で死んでもた。そして茂韶が家督を継いだけんど、 このとき松平姓を捨てて蜂須賀姓に復して蜂須賀茂韶となった。ようやく朝廷側につくことに踏み切ったわけやなぁ。
 また高松藩征伐の朝命が下ったときは、稲田家の尾形長栄が斥候兼砲隊町として兵を挙げ、讃岐清水まで行くと、 高松藩の岡本勘五郎と上野兵太の二士が款願書を差し出し降伏した。稲田隊は意気揚々と引き返す途中の阿讃山脈の曽江山で、 高松征伐に向かう蜂須賀隊と出会った。蜂須賀隊は、稲田隊のその勢い に恐れをなして道を譲ったそうである。なを、この曽江山付近は稲田家の御用林があるところで、高松藩内の盗賊が武士を雇って木材の盗材を行っていたので、 稲田側は江戸に訴え、江戸から役人が来て裁判になったりもしたそうだ。
 徳島本藩の若い武士達は、このような稲田の勝手な振る舞いを幕府や藩に対する謀反とし、最初から不満に思い誅罰するべきと唱えていた。 しかし藩主斉裕は、稲田のこれらの行いを見て見ぬ振りをしていた。 これは幕府が倒されたときは稲田の活躍を本藩の行動とし、もし勤王諸藩が壊滅されたときは、これらは稲田家が勝手にしたことで、 あずかり知らぬこと。と、二股をかけていたのである。蜂須賀家は徳川の親戚筋で松平姓を許されながらも、 二度の長州征伐では幕府より出兵の命を受けたが、二度とも出兵を辞退した。 一度目は、外圧に対して阿波淡路海峡近辺の防衛専念を理由に。二度目は藩主松平斉裕が病気と偽って。 しかし幕府はいずれもそれを認めず再度の督促で、一度目は阿波淡路近辺の防衛は嫡子の茂韶に任せよと。 二度目は代わりに嫡子茂韶に出陣させよ。と叱咤されて、いずれも渋々出兵をしていた。
徳島城鷲の門(1945年7月の徳島大空襲で焼失)

 さて、明治維新。新政府の勤王稲田侍たちに対する処遇は信じられぬほど冷たいものであった。 明治2年、政府は全国の武士に対して、武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすこととした。 そのため稲田家当主邦植は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家臣は陪臣(家臣の家臣)ということで、 卒族とされ平民とされてもた。
 新禄制では、士族は次の8等級にわけられた。・・・と稲田家での役職名(小姓が家老格)
  家 老:一等給 千石             1.無足小姓    9.杖突
  中 老:二等給 二百石            2.中小姓     10.持弓
  物 頭:三等給 百石             3.中小姓準格   11.弓準格
  平 士:四等給 三十〜五十石         4.徒士      12.持筒
  大小姓:五等給 十石             5.日帳      13.鉄砲
  中小姓:六等給 八石             6.会処支配    14.無格
  御帖格:七等給 七石             7.会処言上    15.長柄
  徒 士:八等給 四石             8.裁判言上    16.小人
 足軽以下は平民となり無給。藩主は華族となる。蜂須賀家では他に連枝一門に300石、小奉行7石。 ただし稲田家では上記のような役職名を使わず、稲田家独自の役職名を使っていた。
 [稲田家御家中参考資料(役員名簿・役職人数・出自筋目等)はこちらをクリック!]

 稲田家では、家老格といえども陪臣は卒族扱いとされるため、550石あった井上九郎右衛門、 250石の林八左衛門、160石の七条弥右衛門らも平民となり、国からの禄は無くなる。 それら卒族では藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかったし、 また稲田家との主従関係が断ち切られることに対する不満もあった。 稲田家の家臣三千人余りとその家族が、路頭に迷てまうことになる。 最初から尊王攘夷で活躍し、現に朝廷や薩摩も長州も稲田家を稲田藩とか、洲本藩とか呼んどったのに、 稲田家臣団の士族編入は、新政府が容易にかなえてくれると確信しとった。
 そのためまず藩知事に士族編入を要望したけんど、徳島側は最初これを拒否した。また新政府も、陪臣をここだけを例外的に士族編入したなら、 全国でも同じような要求が起こり、国家財政が破綻することを心配した。 稲田家臣団は、理論上の指導者、三田昂馬(100石)を中心として、士族編入の理由として、  第一に、蜂須賀小六が龍野の大名になるとき、稲田氏も河内の大名になる機会があったにもかかわらず、  それを返上した別格の家柄であること。
 第二に、稲田家の主従は討幕運動に活躍したこと。
 第三に、討幕に奔走したことが、蜂須賀家の立場をよくしたこと。をあげている。
この嘆願は明治2年にはじまり、その後二度行われたが、藩知事の権限を越えていたので、藩知事は、 混乱を避けるためにも藩の重役井上高格を政府に派遣して稲田家旧家臣団の士族編入を副申することにした。 それに対して政府は藩知事の判断で処理することを指示したので、藩では稲田家家臣団のうち、士族編入組と、 卒族組に分けて名簿を提出するよう申し渡した。これに対し稲田側は、士族と卒族に分けることは出来ないと回答したため、 藩知事はこの問題の早期解決のために、全員の士族編入を認めることを通達した。
 しかしながら、気をよくしたのか稲田側は要求をエスカレートさせ、稲田邦植を知事とする洲本藩の独立を要求するようになった。 その実現をめざす家臣たちは、洲本城下の稲基神社に結集して嘆願の成就を祈願するとともに、一致した行動を起こすための誓詞をたてて血判している。
 これらの稲田側の行為に徳島藩士らの怒りは頂点に達したと思われる。また、稲田のこれら運動は新政府の中央集権化とはなはだ矛盾していた。 そこで、明治3年3月21日に岩倉具視は両者を切り離すことを考え、稲田家臣全員の士族編入を認める代わりに北海道移住(静内郡と色丹島)と、 徳島藩側にはそれらの費用をむこう10年間にわたって負担するよう命令を出した。 そして両者の間を取り持つための交渉役として、元徳島藩士で岩鼻知藩事の小室信夫と、元稲田家臣で福島知藩事の立木徹之丞を、 それぞれに送ったりしたが、解決には至らなかった。ちなみに岩鼻県は、寛政5(1793)年徳川幕府により この地に代官所が設置された。 慶応4(1868)年6月、新政府は岩鼻県を設置しここを県庁とした。
明治4(1871)年10月、岩鼻県は廃止され第1次群馬県が成立し、県庁は高崎城内に移された。
 それに対し稲田側は反発し、同年4月の第10回嘆願では北海道移住を拒否し、特別賞典の下付をもとめ、 さらに第11回嘆願では、洲本藩の分藩を願い出た。以上のような嘆願は洲本城下の三田昂馬を中心とする上層が主だった。
 それに対して猪尻派の意識は同じではなかった。特に戊辰戦争後に中央で活躍していた南薫風(みなみくんぷう)は、 洲本派の運動が時代に逆行する運動として、猪尻派を代表する先川牧之進に宛てた手紙で、このように書いている。
 「長州当春の処置の如く候ては、第一徳島藩士族一同へ面目なき次第に候。猪尻後家来はいささかも因循は仕らず候へども、 おそらく洲本の面々永世に禄をもつて安楽に暮らしたき情より相発し候儀とも存じ候。(中略) ただただお家の後家来より小事を申し出て、御政体をけがし候ては、これまであつき思召しも水上のあわと相成り申すべく候。」(榛原家文書)
 このように南薫風は新政府の動向をふまえて、分藩要求が非現実的なだけでなく、三田昂馬らの私情による運動であり、 無意味さを明らかにし、猪尻派はけっして三田らの運動に加わらず、時代の流れに逆行することがないよう依頼している。 猪尻等阿波の稲田侍は先にも記したように、ヨーロッパの貴族のような農地経営をしていた。 洲本のような高収入者はいないが、支配米で充分暮らしていけるので、洲本侍のような、禄が無くなると途方に暮れるというようなことがない。 従ってあえて騒動を起こす必要もない。 しかも無格無禄の者が圧倒的に多く、譜代家来となっている恩義として時宜、金子を稲田家に差し上げているぐらいだった。
 
[三田昂馬(1836〜1901)天誅組義挙に加わるなど尊攘運動に積極的。のち明治6年司法省に出仕、 検事正、控訴院長を経て貴族院議員となり活躍している]

 このような稲田家の動きが、徳島本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、特に若い指導者たちは、 蜂須賀恩顧に対する不忠の行動だと決めつけ、藩知事に稲田討伐の決議書を提出した。 その思想的中心的指導者は藩の儒者、新居与一郎であった。
 
[新居与一郎(1813〜1870)漢学者で、阿波藩校長久館学頭で水竹と号した。]

 稲田討伐決議書を提出した翌日に藩知事は暴挙を慎むようにと論告したが、1870年4月20日に藩内の過激派の代表12人が東京に集結。 翌21日、こんどは太政官に稲田らを訴伐するよう訴状を提出した。 これに驚いた太政官は、彼らを神田一ツ橋にあった徳島藩邸に謹慎を命じ、藩邸から出ることを禁じた。  そして4月27日、太政官は蜂須賀茂韶と稲田邦植を東京に呼んで事情を調査したが、結論はでなかった。 すると5月7日、在京藩兵らは「政府は早くから公家に出入りしている稲田側に同情的だ」と速断して、 そのうちの7人が藩邸を脱走し帰郷した。これを知った太政官は7人を取り押さえることを命じた。 さらに岩倉大納言からは、藩士らが稲田主従に暴行を加えた場合は、蜂須賀家は断絶するという令状が出された。
 そうこうするうち、5月12日藩内に稲田討伐の檄文がまわされ、それに応じた若い士族たちは藩兵隊有志として、 夜営演習を口実に数百人集まった徳島藩士たちが決起。徳島城内の稲田家屋敷を焼き払い、 翌13日、南堅夫を総指揮とする160名余りの銃隊が猪尻に向かって出発した。 一路西進しはじめたとの情報を牧民従事補の板東清内は、その檄文をもっていちはやく麻植郡川田村の原田小次郎に伝えた。 そこから江沢寛一と、四宮哲夫の二人に頼んで、情報を猪尻の稲田邸に通報した。 稲田邸邸吏拝村吉左衛門はこれを受け取って早々に稲田家中を役所に集め協議した。 集まった稲田家中の者約400名、その若い連中のなかには「徳島の連中が藩律に触れようが触れまいが、 当方のあずかり知るところではない。すぐに防戦の準備を整え、 徳島の弱兵にひとあわ吹かせたい」といきり立つ者もいた。さらに混乱を避けようとする先川牧之進らと、 迎え撃つという尾形長栄らの意見が対立し、先川の屋敷で激論をかわした。 猪尻には全国各地での戦歴ある稲田侍が400人からいて、しかも日頃から磨いている武術の腕前は徳島のそれとは比べものにならへん。 実際には、徳島藩の実戦力の半分かそれ以上は稲田家が担っていたともいわれる。そのような情況のなか、 猪尻に向かう徳島藩士らは160人余りであった。戦いの勝敗はおのずと明らかであったが、 しかし拝村吉左衛門は、 「戦こうて勝てん分けないけんど、戦こうたら私闘ということじゃ、稲田家も危うくなるけんなぁ」 という判断から衆義は一致し、結局は家臣342人が高松藩内に避難した。徳島方の事実上の指導者の 新居水竹が一応、若い連中を押しとどめながらも、結局は暴挙に出てしまったのとは対照的である。
 稲田方は夜闇に乗じて間道を抜けて阿賛山脈を越えて讃岐に入った。その際、脇城中にある稲田家の寺の貞真寺にある位牌を持って逃げた。 ほれだけ精神的に余裕を持っとったちゅうことや。一行はその日のうちに仏生山にでた。 そっから高松藩に使者を送って、「仏生山に宿舎を提供してくれるよう」頼んだ。
 一方徳島方でも、稲田方が土佐や讃岐に逃れるかもしれないと予想して、稲田方を受け入れないようにと両藩に手を打っていた 。が、高松藩としては朝廷が高松藩征伐を計画していたときに稲田方から受けた恩義があった。 そこで稲田方に敬意を持って接し、宿を三箇所に設けて最上級のもてなしをした。一行は居心地がよいせいか、 騒動が終わって稲田家から帰ってくるよういわれてもすぐにもんてこんと、 5月27日に第一次41名が戻り、6月21日になってようやく全部が帰ってくるというありさまだったんじぇ。
 一方猪尻進撃の徳島方はというと、徳島藩兵有志達は、南堅夫、小川錦司、三木三郎、海部閑六と、東京 から送れて駆けつけた阿部興人らを先頭に猪尻をめざしていたところ、現在の石井町あたりまで進んだところで、 追いついた藩吏の下条勘兵衛と牛田九郎の2名が「ことを起こせば殿と蜂須賀家の立場が危うくなるかもしれぬ」 と襲撃中止を悲願したが、若い藩士らは、殿は東京に居て、留守の間に我々が勝手に行動を起こしたのだから、殿には責任はなく、 自分たちが責任を取ると言っていっこうに応じようとせず、無視して進撃しようとした。そこで下条と牛田は腹を割って見せて説得をした。 するとさすがに藩兵有志達も二人を下浦の願成寺に担ぎ込み介抱したが、その日の夕刻に相次いで死んだ。 ところが藩兵有志らは、それでもまだ翌日猪尻に攻め込もうと下浦に宿営していた。 そこへ東京から急ぎ徳島へ戻った尾関源左衛門と星合常恕両権大参事は、岩倉大納言の「稲田主従に暴行を加えた場合は藩を取り潰す」 という令状を伝えるべく、星合常恕、井上高格、蜂須賀協の三参事が早馬を飛ばし下浦へ向い、岩倉大納言の意を伝えた。 それを知って藩兵有志達は驚き、岩倉大納言に対する不満大いにあったが、やっと解散することとなった。
 ちなみに権大参事の井上高格は、後に自助社を結成し、自由民権運動に活躍。第一回衆議院議員選挙に当選し、自由党系議員となった。 この徳島の自由民権運動は活発で、それを警戒した政府は徳島県を廃止し、高知県に合併させ、徳島支庁を置いたという時代もあった。
 さて、しかしこの阿波の動きに対して、脇町猪尻襲撃が中止された事情を知らない大阪の有志たちは大阪の稲田屋敷を襲撃してしもた。
 さらに同じく阿波での襲撃中止の事情を知らない淡路の平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら洲本在住の 一部過激派と有志達も、5月12日に農兵を招集。 そして翌日の1870年、明治3年5月13日、集まった農兵を主とする兵士約800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が稲田家主従を襲撃した。
 洲本の町の辻々には制札がかけられ、本陣から次の軍命が発せられた。
  老幼婦女は赦して問わず。
  降服謝罪の者はみだりに殺すなかれ。捕らえてこれを本陣へ送れ。
  頑固にして服せず、義兵を抗拒する者は誅して可なり。
  いやしくも掠奪するなかれ。市郷民家をして兵火にかからしむるなかれ。
  我兵の死者、賊徒の傷、また皆これを龍宝院へ送りて、これを治せん。

 洲本下屋敷町の稲田邦植の別邸には、邦植は東京にいて留守中であったが、母の禎寿院と弟の邦衛がいた。 禎寿院は近江国甲賀郡水口2万5千石の藩主、加藤氏の姉にあたる。加藤嘉明の子孫である。
 稲田方は、非常の場合には、二人を水口に避難させる手筈になっとった。 宇山の稲田武山邸が、第一撃目の砲撃を受けた時には、既に全員が邸を離れていた。 藩士らは、益習館(稲田家の学問所)、市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、 火を放った。稲田家士の妻女はおろか、下僕、下女、はては自宅で読書中の少年二人を捕らえ、 土下座して命乞いをするのも聞き入れず射殺したりした。この少年二人は、甲藤野右衛門夫妻が千光寺に詣っていて、 その留守に息子の敬太郎が友人の寅太郎を招いて読書中に、惨劇に遭った。また、坂井喜右衛門邸では、 射殺した嫡男の坂井普之助の手に、よその邸から掠奪してきた手槍を握らせて、応戦したかのごとく 偽装させたりもしている。射殺した死体を槍で突き、刀で斬りきざんだのもあった。 さらにその妻女は強姦されたり、妊婦はその局部を竹槍で刺し通されたりもしていたようだ。 日頃から物持ちと評判の高かった重役の曽我部直左衛門邸をはじめ、金品家財の掠奪も、思いがけない凄まじさで行われていた。 これら軍命違反の行いは、直参の農兵どもがそのほとんどだったようだ。
 これに対し稲田側は、かねてからの打ち合わせ通り、いっさい無抵抗でいた。稲田の家士たちは、 幕末以来弾雨と白刃のなかをくぐり抜けてきた歴戦の士が多い。戊辰戦争で官軍を支えたのも彼らなら、 上野の戦争で活躍したのも彼らである。幕軍を追って、東北各地を転戦もしてきている。その彼らが、 応戦も私闘であり、主家を危胎に瀕せしめるという判断にたって、最後まで隠忍自重し無抵抗主義を貫いたその理性的な対応は、 この騒動の他に類を見ない著しい特徴であった。
 これによる稲田側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。 他に投獄監禁された者は300人余り。別邸や益習館など焼き払われた屋敷25棟。
 自殺者は三宅達太郎と藤井市郎。即死者は、藤本儀三郎・宗田覚蔵の娘・甲藤敬太郎・斉藤寅太郎・ 浅田藤太夫・井上省右衛門の妻・篠原幸助・中野繁・島木保・坂井普之助・藤岡泰作・丹羽猪右衛門・ 津田直之進・仁木儀左衛門・徳蔵。
 重傷者は、田村政太郎・真鍋領右衛門・堀藤右衛門・佐野堅太・谷美津蔵・安友半平。
 軽傷者は、宗田覚茂・田村量平・藤本宣仙・夫上富次郎・種田三郎兵衛・藤井市郎の娘・
三宅哲二郎の妻・丹波猪右衛門の妻・谷山万兵衛の妻・清七・角蔵・常吉の妻・津田最中の下女。
 焼き払われた建物は、稲田家宇山邸・益習館・三田昂馬・七条弥三右衛門・佐和糺・拝村幸之助・ 野尻弥三兵衛・津田最中・青山晋・浅野喜太郎・治田実・林直右衛門長屋・矢上美吉長屋・ 稲田家宇山邸長屋、など。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。
 このとき東京にいた蜂須賀と稲田の両当主は慌てて帰国し、蜂須賀は襲撃に荷担した者らを捕らえ監禁した。
 徳島藩庁側では、その被害の調査の進展につれて、憂色は深まるばかりであった。まず、稲田方が無抵抗であったということは、 不必要かつ無慈悲な殺戮を行ったことを意味する。事件を起こした徳島藩士のなかには、 これら無慈悲な殺戮をしでかしてしまった結果に責任を感じ、自ら腹を切る者もいた。

 その後の政府からのこれらに対する処分は厳しく、徳島藩側主謀者10人が斬首(のちに藩知事の感嘆陳情で切腹になる)。 これは日本法制史上、最後の切腹刑となる。主犯格の新居水竹(与一郎)と小倉富三郎は東京芝白金の藩邸で切腹。 残りの8人(平瀬伊右衛門、大村純安、多田禎吾、南堅夫、小川錦司、三木寿三郎、藤岡次郎太夫、滝直太郎)は徳島の助任万福寺と住吉蓮華寺で切腹した。 八丈島への終身流刑は、岩倉具視の家士で、その護衛をしていた阿波出身の海部閑六と六郎親子ら27人、その他、鈴木操ら81人が禁固、 謹慎など多数に至るに及んだ。藩知事、参事らも謹慎処分を受けたが、藩自体の取り潰しはなかった。 政府は一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査した。 少なくとも洲本では意欲的に緊急の措置を怠った疑いがある。 そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀茂韶を知事から罷免するつもりであった。 政府は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない。 中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばならない。 だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねない、 そこで、今度の徳島の騒擾事件に多少でも直接の責任があれば、それを口実に藩知事を罷免し、 諸国の反応を見る良い機会だと思っていたようだ。
 この処罰に対して徳島藩庁は、異例の処置を行った。本来なら死刑や終身刑などの重罪人の出た家は取り潰しになるのだが、 死刑者の遺族に家督を継ぐことを認め、流刑者には家族同伴も許し、支度金200両も支給した。これは政府に対する公然とした抗議でもあった。 これを知った岩倉具視は苦り切った様子で木戸孝允に、一刻も早く廃藩置県を実行するよう書き送っている。
 流刑人はその後明治6年に早くも減刑されて帰郷・謹慎となり、明治9年に赦免され、 明治22年の憲法発布の大赦で罪名は消された。しかし流刑の間に牢獄死5人、病死5人を出している。 江戸時代よりの流刑地は伊豆諸島にあった。最初は大島などの近くであったが、集団で船を造り脱島をする者も多くなり、 しだいに遠く八丈島まで延びた。毎年春か秋の好天日を選んで出向した。このときも明治3年10月に、 他の罪人36名に中に混じって出向した。しかし大島で多くの者が死んでいるし、20%の者が三宅島で病死している。 生き残った者がひとこともふれないなど疑問も多かったため、虐待や故意の食中毒ではないかといわれる。

 そして淡路島は三好氏以来からの阿波の管轄から、兵庫県の管轄に移行する。当時の淡路の稲田侍は、 士族730人、卒族2千余人。そしてこのとき淡路の庄屋らは「徳島藩のままにしておいて欲しい」との訴え を起こしたりもしていた。しかしその後の淡路島は阿波、讃岐が合併して名東県となり一時阿波に戻るが、 さらに名東県はまた分離され淡路は兵庫県に収まる。このとき淡路島の人々に、徳島と兵庫とどちらの所属になるのがよいか調査したりもした。 その結果、京や大阪に近い近畿圏に入る方がよいだろうという意見が圧倒的だったそうだ。 今度はその地元の意見が反映されたのだろうか、而して淡路島は永遠に徳島県から離される事になる。 そのような歴史的背景もあり、淡路島の方言は今でも阿波弁的なところがある。 といっても、地元以外の人が聞いてもその違いは分からんけんどな。例えば、地元以外の人が聞く秋田弁と岩手弁のようなもの。 熊本弁と長崎弁のようなもの・・・。
 [太政官による西川一平に謹慎を命じた状]

 なお、岩倉具視の家士の海部親子は阿波藩士ではい。海部閑六は阿波の海部郡から京都に出ていた。 岩倉具視の護衛をしていた長州出身の玖珂周治と親しくなり、玖珂の紹介で岩倉具視に仕えるようになったという。 閑六は岩倉家の諸大夫に取り立てられる。あるとき岩倉が刺客に襲われたのを、一刀のもとに斬り棄てたことから岩倉に重用されるようになったという。 その後、どういった分けか玖珂は閑六の養子となり海部六郎と改名した。 そしてともに稲田騒動に関係したため八丈島に流罪になったが、閑六は妻を同伴して八丈島に渡った。 しかし閑六も六郎も徳島側に加わらなくてはならない動機は明白ではない。 しかも藩兵有志のなかでも、かなり指導的な役割をしていることからすると、どうも岩倉が黒幕ではなかったかと思われる。 稲田方の運動は、分藩要求までに達していたため、それは1871年の廃藩置県の断行を控えた太政官にとっては容認できなかったはずである。 もし分藩を認めれば当時全国に273藩あった諸藩にも同じような運動が噴出しかねない。 何としても幕末の討幕運動に貢献した稲田方を納得させ、静内移住を順調に実現したかった。 そのためには藩有志をそそのかし騒擾事件を起こさせば、その事後処理が容易になると、閑六と六郎を送り込んだと思われる。 ここでもあの岩倉具視の謀略がおこなわれていたようだ。
 [襲撃をまえに記念撮影した徳島藩士]
 「写真左より、益田永武、大村純安、阿部興人、南堅夫。 阿部興人は終身刑となったが、赦免後は代議士となり、北海道開拓にも大きな足跡を残している。」
  阿部興人の詳細はこちらをご覧下さい。

 *北海道静内移住
 いっぽう稲田家主従は、稲田邦植は華族に、家臣の一部は士族に認められたが、いまさら淡路には住めまいなどとの理屈もつけて、 1870年9月17日、政府から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の、静内郡と色丹島(後に返上)への移住開拓が申しされ、 翌年日高国静内へと移ることになる。稲田邦植、当時15歳であった。 しかし、実際に北海道へ移住したのは一部の家臣のみで、新政府自体も3000人もの家臣全員の移住は無理であろうと考えていたようで、 百人でも二百人でも移住開拓の事実があれば、あとは見て見ぬ振りをするようだった。新政府も稲田主従に対しては多少なりとも同情心はあったのであろうか。 しかし岩倉具視も幕末からの活動で、稲田家から過大な協力を得ておきながら、このような裏切り行為ともいえることをしていた。 斉藤道三が毎年蜂須賀家へ米三石送り続けた義理堅さに比べるすべもない。
 [稲田邦植(くにたね)1855〜1927年]
 邦植は14代植乗の子で、幼名小八郎。洲本城内に生まれる。
幼い頃に父を失い、15代植誠の養子となる。
養父植誠の死により11歳で家督を相続すると共に、植誠の遺志をついで王事につくし、 京都で有栖川宮家や岩倉具視邸に出入りし、南勲風らの家来を王事のために奔走させた。
これら幕末の活動で、朝廷より稲田藩と呼ばれ華族に列せられた。
明治元年の戊辰戦争が起こると日の御門守衛を命じられたのをはじめ、摂津西宮に出兵、 また高松征伐には土佐、丸亀、多度津、などに出陣。また征東総督有栖川熾仁の護衛にあたって江戸に進撃するなど、その活躍はめざましかった。 が、幕末前後邦植はまだ年少のため、実質は稲田家重臣の三田昂馬、七条弥右衛門、内藤弥兵衛らが司っていた。

 北海道立文書館が所蔵している記録公文書の「開拓使公文録」には稲田の関係文書が多く出ている。
「稲田九郎兵衛並同人元家来、北海道移住等御沙汰之義御達」は、兵庫県眷属稲田九郎兵衛に日高国の静内郡と志古丹島(色丹島)の開拓を命じた事を記した文書である。
 その開拓費用は元の知行高1万4500石の10分の1を与えられ、残りを10年間分の開拓費用に充てることが書かれており、決して悪い条件ではなかった。 北海道への移住費用は最初、徳島藩が出すことになっていたが、実際は淡路を編入した兵庫県が出した。 この淡路島全島を兵庫県に編入したことがまた徳島藩庁を動揺させていた。稲田家の支配地は淡路島では洲本周辺の1万石程であったが、 淡路島全島となると7万石であり、それらは徳島本藩の支配地であった。それをまるごと召し上げられたようなもので、 徳島側では再び稲田騒動の二の舞が起きそうな雰囲気であった。実際、稲田家の重臣が襲われる事件も頻発していた。 もしそのような事態にでもなれば、こんどこそ蜂須賀家は取り潰しになりかねない。 そこで知藩事や重役達は、はやく稲田家の北海道移住を実現させるよう政府に訴え、稲田邦植にも五千両の餞別を送って説得に努めていた。
 [開拓使公文録]
 静内郡・色丹島の土地は、それまで東京芝の将軍徳川家の菩提寺であった増上寺が管轄していたが、 開拓には見るべき成果を上げることがなかった。そこでそれを引き揚げさせて、実際に移住して開拓にあたることを前提にする稲田家の支配地に変えたのである。
 静内の土地には江戸時代後期に静内場所が置かれ、昆布・鯨・鮭・鱈・鹿皮などの産物が安定して産出されている土地で、 特にシブチャリ川(静内川)両岸には平地が広がっている。北海道の中では比較的温暖かつ積雪も少ない方であり、函館にも近い。 というようなことで稲田家が調査に送った重臣の内藤弥兵衛・平田友吉の2名も「将来極めて有望なる土地」であることを認め報告している。 しかし色丹島は根室の先の離島で、全くの未開の僻地であり、静内からも遠く支配が行き届かないことなどを理由に支配地の替地を早々に願い出た。 替地としては静内に隣接する新冠一帯を希望した。
 その結果、1871年3月15日太政官は、静内郡のとなり新冠郡の支配を稲田邦植の増支配とした。 この新冠郡は、1869年(明治2)7月から徳島藩が支配していた場所で、徳島藩の役人が詰めていた。 それを稲田家に支配を与えたのである。増上寺と同じく一向に成果があがらない徳島藩の支配から、 実効のありそうな稲田家に支配替えを行ったようだ。

 そして稲田家臣の一部が北海道移住を開始した。1871年2月、男達だけの先発隊47人(30人とも) が2手に分かれて出発した。一方は大阪から伏見大津を経て越前敦賀に出て、日本型帆船を借入し、 日本海航路を北上して函館に入り、陸路静内に到達した。もう一方は東海道を経て陸路青森に至り大湊の東南「シツカリ」というところから海路静内に直行した。 そして家族等本陣の入植を迎えるための前支度にあたった。
 そして第一陣が1871年4月12日に大阪丸、大有丸、鍋焼丸の3艘の雇汽船に、米・麦・農具・家具、 それに稲田家に伝わる家宝なども満載して洲本を発ち、品川・金華山を通り太平洋航路を北上した。 家臣137戸546人と、農民11戸十数名であった。途中で水や食料の補給にいくつかの港に立ち寄り、 金華山沖では強風を避けて湾内に三日も停泊したりしながら、約二十日後の5月2日ついに静内(現在の春立)に上陸し、 海岸を北西に約5キロ程歩いて今の東静内に到着した。 ここに先発隊によって足がかりが設営されていた。
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 引き続き出発するはずだった第二陣は、いつまで経っても移住者が集まらず、重役達が説得してまわった。 7月半ばには廃藩置県の詔書が出され、日本中から藩とその封建体制が無くなるという事も起きた。 8月に入って、静内にいる第一陣の人たちからは、「第二陣はいつ来るのだ」という苛立った督促の使者も洲本に戻ってきた。 そしてようやく秋近くなった8月22日に、予定人数には遠く及ばなかったが、薩摩の藩船平運丸という機帆船をチャーターし、 農事指導者の農民数戸を含めた214人78戸と乗組員9名が洲本港を出航した。ところがその日の夕方より海が荒れだし、 和歌山県南部の熊野灘で暴風雨に遭う。そして翌23日未明に嵐で流されていた平運丸は操舵を誤り、 周参見沖亀岩で座礁し横転、83名が溺死、家財等をを失うという悲劇に遭遇する。被害額は稲田家の荷物だけで3万5千両を越えていた。 当時16歳で平運丸に乗り込んでいた猪尻の家士先川宋十郎は、その時の様子をこう語り残している。
 「・・・それとみるや、皆は丸裸になり、両刀を褌に挟んで海中に飛び込んだが、男ばかりであれば、 猪尻侍たちは吉野川仕込みで水練に熟達しているから、流出物にとりつくか、また陸のほうへ泳ぎ着くが、 この乗り組み連中は女と子供連れの多い連中であって、その女子供を救助しながら、わが身も流出物にとりすがるより方法がないために、 死なでもの者まで多く溺れ死んだ・・・。」
 薩摩人の船長有馬庄之助は藩船を沈めた責任を自らとって8月24日、自決した。平運丸は元治元年に英国から購入したもので、 進水年月日は不明であるが、大砲などの兵装は少なく、輸送船の性質が強かったものと思われる。 長さ50間、幅8間、二本煙突、三本マストの鉄船だといわれている。 生存者は周参見の万福寺と仏願寺に分けて収容され、村中総出で炊き出しや応急の医療が行われた。 遭難の報を受けた洲本の稲田役所は食料衣類を乗せた船を早々に周参見に向かわせた。而して生存者は和歌山経由で洲本に戻った。
 平運丸の洲本到着は不明であるが、人員の乗船は明治4年8月21日、出航は22日、座礁沈没は23日午前6時頃であった。 溺死者は42世帯83名で、内本人19名、妻20名、母及び祖母5名、子女34名、弟妹5名であるが、年齢についてはほとんどの人が不明だ。 乗船者名については判明していないものの、死没者の氏名、出身地については、その死者の祭られた八十盤村神社の記録にある。 死没者八十余名にちなんで、猪尻の稲基神社の横につくられた神社である。それによると、穴吹3世帯5名、半田6世帯9名、 脇町20世帯41名、松茂3世帯5名、寺島2世帯5名、淡路8世帯18名で、脇町が約半数を占めている。
[遭難者名簿はこちらをクリックしてください。]

[平運丸遭難者の墓(1970年7月同町のここ串の戸に移転)]

 その後の北海道移住は、船の手配や金銭的にも目処が立たず、だいいち北海道へ移住する希望者? も極めて少なく困難となり、断念せざるを得なかった。本来300戸1800人を移住する予定だった。  家臣たちはそのまま淡路に残る者もいたが、神戸や徳島県内へ移住する者や、商人を志して京や大坂へ移住する者、 邦植と共に東京に出て活動する者、等々他へ移住する者さまざまであった。

 さて静内の方はというと、シブチャリ川(現静内川)沿岸に住み鮭や鹿肉などを常食する狩猟生活のアイヌ集落123戸554人がいるだけであったから、 耕地も道路も無い荒地に立った婦人達はその場に泣き伏してしまったという。 しかし気を取り直して、七坪半から十坪程度の木造小屋を建て、草葺き板囲いの掘立小屋に仮住まいをしていた。 また頓成寺の建物を役宅に定め、漁場の番屋などに分宿した。 しかし、持っていった家財道具の置き場所もないので、東静内にあった旧幕府の請負人の佐野専左衛門の漁場倉庫に家財道具一切、 冬物の衣類や日常の労働用具までしまい込んであった。この中には稲田家代々に伝わる家宝の多くも含まれていた。 それが、7月30日の夜、失火で全焼してしまうという悲劇に見舞われた。始めて迎えようとする北の冬で、この災禍は絶望的状態であった。 その被害額は、これも稲田家の荷物だけで十万両を越えていた。 北海道の寒さは到底暖石阿波や淡路生まれの者には堪え凌ぎ得られるものではないと訊いていたので、 その防寒具というものはどんなものか知らないまま、ただ綿の沢山入ったものを持って行けばいいだろうということで、 各戸丹前、寝具の類を多分に用意してきていた。それが全部焼失してしまったのだから、その衝撃落胆はまことに大きかった。
これに対処するため、開拓使から金3000両を借り入れ、さっそく函館に人を派遣して反物、綿、ふとんなどを買い求め、 被災者各戸へ綿入2枚、ふとん1枚づつを与え冬を越した。
 また住居の方はというと、東京の加藤幾蔵なるものが請負い、秋田県から材料を入れて建築にかかっているが、 その構造はきわめて粗末なもので、木造柾葺、壁は板囲い一枚というものであった。士分は大家といいながら、 わずか10坪。それでも明治5年の初めには予定の過半数が完成し、2戸に対して一棟を与え、それぞれの希望によって、 身分によって順次入居させていった。
 稲田家とその家士達は、どうしてこうまで過酷な運命ばかりを押しつけられるのであろうか。 はやくから尊攘運動に挺身しながら、御一新になっても陽が当たるどころか、 徳島藩士の殺戮と暴行を甘授したうえに北海道へ移住させられ、あげくのはてに冬を控えて火災で全財産を失い、 船は遭難して83人もの命を失った。

 一般の道内の諸藩の支配地においては、例えば十勝国三郡並びに日高国浦川・様似の支配を命じられた鹿児島藩では、 「皇国の極南に在て北地を距ること殆ど千里、四時寒暖を異にするの地。併て是を管轄せば開拓治民の成功我藩決して成し得べきに非ず。 夫如是は自ら王民を傷ひ疾しむるの罪を招くもの、実に恐懼の至りに堪えず。云々。」として、 これに着手もせず返還を申し出た。また北見三群と宗谷の支配に任ぜられた大藩金沢藩にしても、藩の財政疲弊を述べ、 「曠漠寒沍の荒境、ことにロシア人雑居の樺太に対峙すること、兵食兼備にあらざれば不可能である。」 などとして土地返上を願い出ている。
 [稲田家に伝わる具足と狛犬]


 静内に移住した家臣らは、洲本に実現出来なかった稲田洲本藩を、静内で稲田静内藩をつくることを夢見ていたかもしれないが、 時は廃藩置県となってゆく。また士族に認められはしたものの、その生活ぶりは洲本の農民より貧しい農民生活で、そのうちその士族の禄も廃止されてしまう。 ちなみにこの士族の称号は大正2年の戸籍改正まで戸籍に記録された。明治初年、約2百万人の武士がいたといわれる。 また穢多、非人等の賤民身分の者が平民ならぬ、「新平民」として戸籍に記述されたのは明治5年から始まったいわゆる「壬申戸籍」で、 本来政府は「平民」とするよう指示したが、政府自体は賤民身分の解放を心して平民とするよう決めたのではなく、欧米との不平等条約解消のためだった。 当時欧米では既に賤民身分は無く、先進民主的な国家を示すためには賤民身分の存在はまずかった。 しかし、各地の農民がそれに反発して騒動が起きた。 江戸時代200年以上にわたって身分上優位に立てた農民にとってはそれは許し難いものであったようだ。 そこで戸籍には「新平民」と記録し差別化した。学校普通教育がはじまってからも、 一部の地域では「部落」の子供と一緒の教室で勉強など出来ぬという親が大勢いて、教室を別にしたなどということもあった。 なお、「華族」の称号は日本国憲法の施行まで続いた。「新平民」等の記載のある壬申戸籍は現在、 1969年(昭和44年)以降廃棄処分。改正原戸籍も50年間又は80年間(年式の戸籍の種類により異なる) 経たものは各地の法務局などに移管され、除籍謄本の請求をしても一般には交付<されていないようです。
 静内移住家臣たちは強固に生き抜いた。農作業などやったことがない武士達が唐鍬、鎌、刀のみの道具で、 道路の開削、橋梁工事や耕地の開拓を共同作業で行った。まず自分たちの居住空間と耕地を確保するためには、 森林を切り開いていく以外にほかに方法はなかった。背丈ほどもある草むらを刈り払い、 木を切り倒し、その木の根を一つまた一つと掘り返して行き、そこを焼き払って整地、耕して、 やっとの思いで出来上がった土地はわずかなものであった。しかもその土地では米などはおろか、 まともな作物一つ作れなかった。また、せっかくの作物が鹿や馬に食い荒らされ、栄養失調とブヨ・アブにくわれて 病人が続出したりもした。この辺は野生馬も多かったらしく、松前藩の放牧していた馬の何頭かが逃げ出し、 野生馬と混ざり合って更に増えたという話しもある。
 海辺(下下方)から内陸方面(上下方)を経て、目名まで、幅二間に草や茅を苅り払い、川には小橋を架けて道とした。 また稲田屋敷の前の方で開拓を始めた青年達もいたが、この辺りも樹林地であったため手がつけようもなく、 初年度は僅か二、三反歩大根を蒔きつけた程度であったという。また農業の指導者になるはずだった淡路の百姓でさえも、 先祖伝来の田畑を耕すことしか知らず、原生林を切り開いての開拓は並大抵のものではなかった。

 食料はアイヌ土人と同じ、鹿や鮭を狩猟して生きながらえた。 また、アイヌの人たちの知恵や力にも大いに世話になっていたようだ。
 しかし、彼らの心のよりどころともいえる、肝心の殿様、稲田邦植が東京にいる家臣らに、東京の稲田屋敷に引き留められていてた。 静内では荒木重雄を東京に送って、殿の静内移住の為には差し違える覚悟
で説得にあたった。 また稲田騒動の張本人であるはずの三田昂馬は、まったく移住の気配すらなく、東京で官職に出仕してしまう。
 移住した家士、瀬川芳蔵の回想録には、当時の様子がこのように書かれていた。
 「海辺には土人の通う小道あるのみにて、海岸一帯より原野を望めば、 樹林鬱蒼として古来より斧の入りたることあらずや。満目の光景、今日より見れば、誰か当時の情況を想像し得る者あらんや。  十余の壮士、一草屋に住し、ただ寝食の処となすをもって、梁間三間桁行六間の一棟にして、 土間に草を敷きてむしろとなし、中央に一つの炉を設けて煮炊きの用に供するのみ。夜に入りても、よく灯火あるにあらず。 半夜きんじょうを踏むものあり。起きて付け木を点ずれば、数頭の狐屋外に飛び去るを見たり・・・。」
 また岩根静一の「北海道移住回顧録」では、
「静内郡土人は総て染退川沿岸に住し、鮭の乾魚及鹿肉の干したるもののみを常食とするを以て、 誰も耕作をなすものあらず、海辺には根室に通ずる一條の小道あるのみにて、 海岸一帯より原野を望めば只茫茫丈余の茅茨目を遮り樹林鬱蒼として古来斧鉞の入りたることあらず、 満目の光景今日よりして之を見れば、誰か当時の状況を想像しうるものあらんや、 土人の海辺に出るのも只染退川及びメナ川の岸に沿ふて、迂回をいとはず往復する者にて、 草を苅り道を通ずる如きは誰も顧みる処にあらず。」
 二人の回想録の中には全く同じような文言がある。これはどちらかが引用したかどうかは分からないが、 最初に移住し苦労して開拓した人々が、今日の静内を見るにその思いがよく感じとれる。



           [開拓の様子と、日高地方のアイヌの人々]

 1871年8月の廃藩置県により、北海道全体が北海道開拓使の管轄下となり、静内郡、新冠郡の支配を罷免されるが、 邦植は開拓使貫属となり、引き続き静内の開拓に従事することとなった。 そして1873年3月に弟の邦衛が先ず入植し、次いで4月に稲田邦植が家族と共についに入植した。 邦植はおっとり殿様タイプで、弟の邦衛は活動的だったようである。他に妹のハル子がおり、 佐藤昌介に嫁いでいる。佐藤昌介は北大総長となった人で、札幌農学校二期生。

 そのようななかで、子弟教育のため、明治7年(1874年)、日高国静内郡目名村(現静内郡静内町字目名)の開拓地に、 英語教育の稲田英学校を設立したことは驚きである。その経緯としては、1871年9 月、洲本「益習館」の再興として、家塾「益習館」をはやくも設立(翌年「目名教育所」に改組改称)。 稲田家では、1873年、英語教師として東京在住の旧家臣宗武彦麿(1839〜1894)を迎え、 翌年に教育所とは別に新しく「稲田英学校」を創設した。それらの学校は人材育成(稲田家再興)の拠点として設けたのであるが、 英学校を設立した背景には、士族集団の移住、大村誠卿の英学啓蒙、旧徳島本藩の洋学志向、 開拓使農業現術生の洋式農法修業を岩根静一らがHorace CapronやEdwin Dunに学んだこ、 とにより将来の開拓事業に英語習得を、緊急かつ必須の課題としてとらえたのであろう。
 稲田英学校に学ぴ、また農業現術生となった彼等が中心となって、移住民の開墾農作業・牧草栽培・馬匹改良等を推し進め、 結果的には、日本一の競走馬生産地日高の基礎づくりに貢献した。今では馬の放牧にも成功してサラブレッドを産し多くのダービー馬を出したりもしている。 こうした悲劇や苦労を乗り越えて、徐々に開拓はすすみ、米作にも成功した。また初代稲田植元が脇町で盛んにし、 徳島の名産物となった藍の生産を行い、これも成功させた。
 名馬の産地として有名な静内の丘の上には、開拓百年を記念した彼らの苦闘を語る記念碑が建てらた。
    [目名の稲田家屋敷跡の裏、及び上陸地にある]
 
 なお1877(明治10)年、邦植は西南戦争で予備少尉に任じられ、静内の旧家臣50名程をひきいて東京まで出陣したが、 東京で演習しただけで、西郷隆盛が死亡したことにより、家臣共々手当だけ貰って静内に帰ることとなった。
 1879年、陸軍少尉となり札幌に住み、1890年、静内の土地・家屋を弟の邦衛に譲り、脇町に移った。 そして1896年、男爵になり、正四位に叙せられた。大正9年(1920年)に養子昌植に家督を継がせ、昭和2年に神奈川県で没した。 72歳。墓は洲本の江国寺にある。ちなみに昌植は日本スキー連盟会長、大学教授、貴族院議員などをし、戦後は日本大学の講師をやっていた。 1968年79歳で没。
 現在静内町には稲田家屋敷跡がある。洲本市の江国寺稲田家菩提所には稲田側犠牲者の招魂碑があり、 それよりわずかの距離を隔てた専称寺には蜂須賀側処刑者の供養碑「庚午志士之碑」が建っている。 これらの一連の事件を稲田騒動または庚午事変というが、当時の人々は、稲田家と蜂須賀家をあいまいなままにしといたんで、 その処置を「太閤さんの後始末」ともゆうたらしいんじぇ。
 なお「庚午事変」というのは、1870年(明治三年)に日本中で起こった事変の総称で、稲田騒動の他に、 蝦夷松前藩の庚午事変、越後長岡藩の庚午事変、奥羽盛岡南部藩の庚午事変などがあった。 しかし稲田騒動が一番大きな事変だったためか、庚午事変といえば稲田騒動のことをさす場合が多い。 明治維新は薩長土肥の倒幕軍などが、その他の諸藩の変節や協力を得て成功し、新政府を樹立したが、 新政府の方針はお粗末なもので変更される事が多かった。そのため新政府に協力した諸藩は、 結果的に約束は反故となり騙される結果となった。そんな情勢下であった1870年は庚午の年で、 各方面の不満が爆発した年でもあったんよ。

2001年4月6日から6月22日放送


[ご一行様上陸地:元静内橋]


[真歌公園(シャクシャイン城趾)より、静内町]


[稲田屋敷跡:御殿山近くの岡田牧場入口]


[東静内の猟場跡:倉庫や番屋があった(火事のあったところ)]


[東静内の会所跡]


[東静内の益習館跡]


[御殿山の稲基神社]


[御殿山の稲田家による静内開拓の記念碑]


[上陸地:元静内橋]


[東静内の会所跡、益習館跡、猟場番屋、倉庫跡]


[御殿山の稲基神社、静内開拓記念碑、稲田屋敷跡(セイコーマート(右)を過ぎて直ぐ左の道を入る)]


{動画}

[静内移住者名簿]  [洲本の稲田家臣名簿]  [阿波の稲田家臣名簿]  [周参見沖遭難者名簿]

 主要参考資料
「稲田家昔物語」稲田会平野義賢編纂、「阿波藩稲田家御家中と類親の系譜」国見慶英編纂、「静内町史」、 「稲田家御家中筋目書」猪井達雄編纂、
「徳島県の歴史」三好昭一郎・高橋啓編、「庚午事変」徳島郷土史会、「お登勢」船山馨


 この稲田騒動のページは、稲田騒動に関わった稲田御家中の方々、特に静内へ移住された方々に敬意を表すと同時に、 その関係者の子孫の方々の多くにそれら史実を知っていただれれば幸いです。 よってこの趣旨により、こちらのHPからの引用等は引用先を明記下されば自由に行って構いませんが、ご一報下さるよう申し致し候。
 1996年10月15日

*ウィキペディア日本語版の「稲田植元」のページの2009年10月20日 (火) 07:08 (UTC) の初版に 利用者:快左衛門 として投稿


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